ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.062 「 ハンナ・リデル エダ・ハンナ・ライト 」

講師/リデル・ライト記念老人ホーム理事長  小笠原 嘉祐 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「ハンナ・リデル エダ・ハンナ・ライト」です。


知っているようで知らないのが「ハンセン病」に貢献的奉仕をしたお二人のことです。今回は明治期の熊本で、ハンセン病という難病に立ち向かったイギリスの女性宣教師ハンナ・リデルとその姪のエダ・ハンナ・ライトのお話です。

リデルは、ハンセン病患者の悲惨な姿を目撃して救済を思い立ち、回春病院を設立し、生涯を救済活動に捧げました。ライトは、叔母のリデルの事業を助けるために熊本に住み着き、患者の救済に従事しました。彼女たちのハンセン病患者達に対する功績は計り知れないものでした。

今回は、リデル・ライト記念老人ホームの小笠原理事長に、彼女たちの生い立ちや活動、当時の熊本のことなどについて詳しくお話していただきました。


リデル、熊本へ


ハンナ・リデルは一八五五年、イギリスのロンドン郊外のバーネットという所で生まれました。彼女は福祉、慈善事業に興味をもち、CMS(伝道団体)の宣教師として活動をします。そして、明治24年、英語教師として五高に赴任してきます。当時、五高にはラフカディオ・ハーンや夏目漱石らがいました。きっとリデルはどこかで彼らとすれ違っていたでしょう。また、日本も明治22年に大日本帝国憲法が発布され、近代国家として成長していた時でもありました。

当初リデルは、熊本に来るのはあまり乗り気ではなかったといいます。それは、明治22年に金峰山の大地震があったためとも言われています。


桜の木の下で


リデルが五高の先生たちと本妙寺へ花見に出かけたときのことでした。彼女の目に飛び込んできたのは、美しい桜の花ではなく、その沿道にうずくまるハンセン病患者達でした。彼女はこの光景に衝撃を受け、ここで彼らをまのあたりにしたのは神が自分をここに連れてこられたのだと、救済を思い立ちます。

まず、本妙寺の近くに臨時の救護院を作り、本格的な病院の建設へ動きだします。そして、本国イギリスの知人の援助や資材を注ぎ込み、数ヵ月後、五高に近い立田山山麓の敷地にリデルの発案により「回春病院」、英語で「Resurrection of Hope」(希望の復活)と名付けた病院を建設しました。


回春病院の経営


病院の設立後、経営のほうは決して順風満帆とは言えませんでした。日露戦争の頃は、イギリスからの送金も途絶え多額の借金を抱えてしまいます。しかし、リデルは、軽井沢の避暑地などに出向いていって、各界の有力者たちに直談判します。彼女の熱意に心を動かされ、大隈重信、渋沢栄一などの当代一流の名士たちがリデルに協力を約束します。

やがて、明治40年に「らい予防法」が制定されましたが、これはリデルの思いとはうらはらにハンセン病患者の隔離収容を強化するものになっていきます。


リデルの活動


彼女は、患者達を「私のこどもたち」と呼んで慈しみ、日常生活から何から一緒に行動しました。病室などは清潔に保たれ、何よりも彼女は家庭的な雰囲気を大切にしました。

患者達は、日々ゲームやスポーツ、音楽を楽しみ、庭仕事や手作業を日課としていました。また、彼女は、敷地内にハンセン病の研究室を設立し、治療と研究に献身します。そこには当時五高の学生だった宮崎松記(後に国立療養所・菊池恵楓園(けいふうえん)の園長)も加わっていました。

こういうエピソードがありました。昭和6年、熊本で陸軍大演習が行なわれ、昭和天皇が来熊されました。リデルの活動が評価され単独拝謁の案内状を山縣侍従が持ってこられました。侍従は患者を部屋から出すな、消毒を用意しておくようになどと病院側に指示しました。ところが、リデルはそういうことをすると患者達と母と子の関係が打ち砕かれると、単独拝謁を断ったと言われています。


ライト、リデルの意志を受け継ぐ


大正12年、リデルを助けるために姪のエダ・ハンナ・ライトが来熊します。しかし、最愛の後継者を得て安心したかのようにリデルは、昭和7年2月3日に他界しています。

ライトは、リデルとは対照的で小柄で物静かでしたがその目は優しさにあふれていました。彼女はいつも普段着で患者達と接し、部屋を訪れては手を触れて話し掛けていました。患者達もこの彼女の優しさに涙を浮かべていたといわれます。


回春病院、閉鎖へ


昭和10年代に入ると日本は戦争へと向かい、らい予防法も更に強制収容が強化され、やがて回春病院には特高刑事が入り、ライトはラジオに短波放送が付いていた、手紙を英語で書いていたなどの理由からスパイ容疑を受けます。また、資金的な問題や病院の対処などをめぐり閉鎖へ追い込まれていきます。

そしてとうとう昭和16年、奇しくもリデルの命日であった2月3日に回春病院は閉鎖されました。この日閉鎖があることを患者達にはいっさい知らされていませんでした。当日その場で急に閉鎖を知った患者達は、あわただしく身の回りのものだけを持ち、新しい収容先に向かうためにバスに乗せられました。車が動きだそうとするとライトはバスにしがみつき「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら言い続けました。

その日のメモに、「政府は私から親愛なる患者を奪い去った。そして病院は空っぽになった」と記されています。


その後


オーストラリアに国外追放されたライトは、戦後昭和23年に再び熊本へ帰ってきます。その時ライトは78歳。自分はあの患者達、叔母のリデルの横にいくんだとの思いからでしょう。1年8ヶ月後、"ふるさと"熊本で80歳の生涯を終えます。

彼女の最後のメモには「私の一生は神様のお恵みにつつまれて、大変幸せな生涯でした」と記されています。

回春病院の跡地の小高い丘に建つ納骨堂には、患者達と一緒にリデル・ライトのお二人も眠っておられ、いまでもこの地を守っておられます。