県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。
今月のテーマは、「熊本洋学校とジェーンズ」です。
熊本洋学校は、実学党藩庁が、藩の兵制の様式化と人材育成を目的に藩政改革、教育改革を実施し、西洋の文物技術を移入するため、アメリカ人ジェーンズを招いて創設した学校です。ジェーンズは一人で20科目程の教科を教え、原語、原書による徹底した英語教育を行いました。卒業生の中には、横井みや子(小楠の娘)や徳富初子(蘇峰・蘆花の姉)がいます。またジェーンズのキリスト教教育は、生徒のなかに数十人の入信者を生み、彼らは、花岡山で奉教結盟を行い、「熊本バンド」を結成し、近代日本プロテスタントの三潮流の一つを形成するに至りました。
今回は、以上のことについてジェーンズ邸館長の奥村茂先生にお話していただきました。その要旨をご紹介します。
熊本洋学校の背景
明治2年6月、版籍奉還により、正式に熊本藩となり、細川韶那が熊本藩知事となりました。明治3年5月、細川護久が家督を継ぎ、熊本藩知事となります。護久は、首脳人事の入替えを断行し、実学党で固め、実学党の手によって藩政の大改革をはじめます。当時、城下町は繁栄していましたが農民は衰え、下級武士や町民の暮らしは苦しいものでした。このような時代背景を受けて、しだいに政権は、保守勢力である学校党から進歩的勢力の実学党へと移っていきます。進歩的な諸藩は、欧米文化移入のため洋式の学校を設立していきます。(加賀、静岡、京都、岡山、松平、札幌など)
熊本では、横井大平(小楠の甥)が明治2年に帰国、熊本の前途を案じ藩立洋学校の設立を提案します。藩はこれを受け入れそれまでの諸学校を廃止して医学校と洋学校を設立します。
そこで大平と野々口為志(小楠の門下生)とで、政府御雇教師であるフルベッキに依頼し、L・L・ジェーンズを教師として招聘します。
L・L・ジェーンズ
レロイ・ランシング・ジェーンズ。アメリカ・オハイオ州ニュー・フィラデルフィア生まれ。1856年にウエスト・ポイント陸軍士官学校に入学し、卒業と同時に南北戦争に北軍士官として従軍します。6年後、末大尉で退役、東部メリーランド州で農業に従事しました。明治4年8月、34歳になったジェーンズは家族とともに来熊します。同年9月、熊本洋学校の教師として教壇に立つことになります。
この洋学校の生徒は、士農工商の子弟で、月謝、教材費、文具費、寮費に至るまですべて公費でまかなわれました。
ジェーンズは、英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物などの各教科をすべて一人で、日本語を使わず英語で指導します。
ジェーンズの指導は開発的、自学自習教育で、教育は与えるものではなく、その人が持っているものを引き出すと言うものでした。また、班別学習(グループ学習)を取り入れ、優秀な生徒を後進性教授方として、他の者の指導にあたらせました。教える方は、人に教えなくてはならないために、より一層の努力をし、教わる方も早く人に教えることが出来るように一生懸命に勉強しました。このような画期的な授業を、ジェーンズは行っていました。また、日本で初めての男女共学も行われました。生徒の中には、徳富初子(蘇峰・蘆花の姉)や横井みや子(小楠の娘)などがいました。
ジェーンズの業績
ジェーンズは、『衣食住の安定、日常生活の充実こそがすべての基礎である』と考え、身を持って地域社会への啓発活動に尽力します。
西洋野菜(ジャガイモ、タマネギ、キャベツ、カリフラワー、トウモロコシ、グリーンピース、レタスなど)の種子を取り寄せ栽培します。また、国産の小麦づくりに成功し、味も抜群、栄養豊富なパンを焼きました。それから、西洋鋤をアメリカから取り寄せ、馬に取り付け実演を披露します。群衆は、驚き感嘆します。その他、柑橘類の果物の植樹、栽培、繁殖、改良、つぎ木や摘果等の機会を導入。また自動化された印刷機を初めて熊本に輸入し導入したり、牛肉を食べさせて寮生達の壊血病をなおし、牛乳で栄養を補わせたりします。
熊本バンド
ジェーンズ邸で行われた聖書研究会でキリスト教を知った学生たちは、花岡山に登り、祈祷会を開き、キリスト教をもって祖国を救うという主旨の奉教趣旨書に署名誓約しました。その数35人。キリスト教禁制の高札が撤去された直後とはいえ、この出来事に驚いた当局は洋学校を廃校としました。入信した学生たちは京都に移り同志社に入学します。ここで宣教師から熊本グループの意味で「熊本バンド」と呼ばれたのがこの名の始まりです。
このようにジェーンズは、多くの文化と知識、技術などを熊本にもたらし、熊本の発展に大きな影響を与えました。また、後に近代日本を各方面で代表をする優秀な人材を数多く育てました。
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