ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.058 「 男成(おとこなり)神社 」

講師/郷土史家  飯星 時春 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは「男成神社」です。


舒明天皇の12年(640年)、阿蘇大宮司によって阿蘇神社の分社として矢部に造られた社です。男成という名は、阿蘇惟義以来、代々阿蘇氏がここで、元服の式を行っていたという由緒によるものです。また、当地は健磐龍命(たけいわたつのみこと)が最初に足を止められ、行宮(行幸の際の天皇の仮営)を建て、祖神を祀られた場所という伝説があります。

今回は、名前の由来や伝説などを、郷土史家の飯星時春先生にお話していただきました。その要旨をご紹介します。


男成神社の由来について


男成神社は、神武天皇の七六年二月、健磐龍命(たけいわたつのみこと)がこの地に下向の際、皇祖の三神を祭祀されたことに始まり、伝説によれば、初めは御岳山(矢部町)の山頂に祀られていましたが、しだいに山麓に移行してきたといわれます。神仏混祭時代には、頗る殷賑を究めたという祭坊の遺跡がありました。また、第三十四代舒明天皇の十二年、更に阿蘇十二柱を勧請し、広く崇敬を受けていました。第二十八代後鳥羽天皇の建久三年(一一九二年)六月十五日、祇園宮を相殿に祀り、祇園宮と尊称しました。後堀河天皇の貞応元年(一二二二年)六月十五日、岩尾城主の阿蘇惟次が、長男の惟義の加冠元服の式をこの神社の神前で行い、男成宮と改称しました。氏神として大変厚く崇敬して、以来阿蘇家の元服の式は、必ずここで行うという習わしになりました。

後土御門天皇の応仁ニ年(一四六八年)正三位の惟忠大宮司の時、霜月十五日の祭典には、流鏑馬相撲三十三番の神楽を奉納したといいます。八月の五穀成就祭には、甲佐郷・宮内まで神幸、文明九年(一四七七年)九月には惟忠の出陣に際して太刀および小剣を奉納しました。阿蘇氏岩尾城の歴代の城主は、祭祀を鄭重に行ないました。また上下益城、南郷、宇土各郡領内の総社として、社領二五〇丁の寄進があり、正親町天皇の元亀三年(一五七二年)の再建の際には、阿蘇領内各郡の力で修造されました。その後、さらに修造されましたが、慶長年間(一五九六~一六一五年)、小西領となり、焼き討ちの難に遭い、社殿や宝物等がすべて燃えてしまいました。社領は没収され祭儀も衰えましたが、加藤氏の時代に再建されました。馬場先の老松は、清正公の手植えであると伝えられていますが、先年落雷の被害で枯死してしまいました。藩主細川氏の家紋入りの幕、提灯などが奉納され、現在神殿に掲げてある額は、細川十代藩主の自筆で奉納されたものです。安政三年(一八五六年)二月にまたも焼炎上しましたが、藩命により再建されます。明治九年に拝殿を再新築し、その後郷社となります。


男成神社の文化財


男成神社には、北朝系大宮司として矢部を本拠としていた惟忠が奉納したとみられる友成銘の太刀があります。また、その際に阿蘇家家老の村山惟茂の添状も一緒に寄進され、武運を祈ったと思われます。

友成は、日本の作刀界において第一級の刀工であるということはいまさら申し上げるまでもありませんが、生国の備前において彼は初祖的存在として尊敬されていました。彼は、一条天皇の永延頃(十世紀の終わり頃)の人とみなされており、その時代は山城国では宗近、大和国では行平、伯耆国(鳥取)では安綱らが輩出した日本刀界での第一期の黄金時代に当たっていました。


西南戦争時代


明治十年二月二十三日、鹿児島挙兵に始まった西南戦争は、熊本城炎上後、政府軍との戦も連敗し、西郷軍は矢部に撤去します。浜町の通潤酒造の山下さん宅にて有名な「浜町会議」が行われ、その後男成神社で戦争犠牲者の招魂祭が行われました。酒を汲み放歌高吟、士気を高めて一夜の野宿をしたと推測されます。翌日の午後、人吉へ集結のために出発しています。この内容は、当時の熊本隊軍監、古関俊雄の戦袍日記に詳細に記録されています。古関氏の歌に

駒とめて拂うも惜しく散る花に

桜織りなすしたたれの袖

とあります。

桜花爛漫の様子がうかがえますが、東軍(政府軍)の追撃のさなかであり、耳切れ鳥居の傍らには(ここは日向道であり主要道路でありました)台座を設け防戦のままの態勢での行動であったと思われます。またここに漢詩があり、

吶喊三斉山岳振動豪飲健啖叫置醉吟

とあります。大いに飲み歌い山が振動するような騒ぎをしたであろうと考えられます。ここで五中隊に編成され、一個中隊百五十人から二百人とありますから、八百人から千人近くの人達がここに集まってきます。この隊には佐々友房氏(済々黌高校の創始者)もいたとあります。このような激動の戦渦の中で歌を詠み感性溢れる先人の心に只々頭の下がる思いです。

このように、男成神社は時代とともに役割を果たしてきた文化の中心でもあったと思われます。また、日本の心を大事にしてきたところでもありました。

現在、少しずつこの日本の心が失われていっているような気がします。

名前の由来のように、ここで成人式や結婚式など執り行えるように成ればと思います。