ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.057 「 阿蘇家の功臣 甲斐宗運 」

講師/甲佐町教育委員会  久米 壯亞(ひろつぐ) 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「阿蘇家の功臣 甲斐宗運」です。


戦国時代末期肥後の武家領主、御船城主であった甲斐宗運は、もと菊地氏の子孫で日向国(現宮崎県)鞍岡出土の領主でした。父親宣が阿蘇大宮司惟豊を助けて矢部を回復してから肥後に移り、阿蘇家に重用され、宗運は御船城を得、一族は隈庄(くまのしょう)城を得ました。彼は、阿蘇家の繁栄のために様々な功績をあげていきます。

今回は、彼がどのようにして政治的地位を高めていったか、周囲の武将たちとの絡みも含めて、甲佐町教育委員会の久米壯亞先生にお話していただきました。その要旨をご紹介します。


阿蘇家における甲斐氏


肥後の国を支配していた阿蘇家では、南北朝時代を背景に身内どうしで大宮司の地位をめぐり内紛が絶えませんでした。惟長・惟前父子と一族の惟豊が勢力争いをくりひろげ、惟豊は永正10年(1513)戦に破れ、矢部の「浜の館」を追われ日向の国に逃れます。日向の国では、菊地氏の流れをくむ甲斐氏が勢力を持っていました。惟豊はこの甲斐親宣(宗運の父親)を頼って力を借り、4年後の永正14年(1517)に「浜の館」にいた惟長・惟前父子を薩摩に追放し、「浜の館」を取り戻します。このことがあって、惟豊は甲斐親宣を家臣団の長として、統率をはかっていきます。

惟長・惟前父子は相良氏を頼り、罪を謝罪し、阿蘇本家に背かぬことを誓い、惟豊に許され甲佐城におわらせました。しかし、もう一度「浜の館」を支配したいという思いから、南の島津氏の力を借りて惟豊に戦いを挑みますが、甲斐親宣ら重臣は阿蘇氏の分裂を恐れ、甲佐、堅志田、砥用を惟長・惟前の領分と定め、阿蘇家を守りました。

天文10年(1541)阿蘇家の重臣だった御船房行が島津氏の誘いに応じて、阿蘇氏に反逆します。惟豊は、嫡男千寿丸(13才)を大将に、息子の甲斐親直(宗運)を介添として御船城を攻めさせます(軍見坂の合戦)。この戦は、宗運の機略により勝利を得ます。この戦の功により、宗運は島津押さえのために御船城を与えられ、名実ともに阿蘇家家臣団の頂点に立ちます。


阿蘇家の重臣 甲斐宗運


名実ともに阿蘇家の重臣となった甲斐宗運は、惟豊が死去した後も、大宮司惟将を助け阿蘇氏を守っていきます。

甲斐氏の一族で隈荘城主であった甲斐守昌が島津氏へ寝返り、舞ノ原(城南町)で戦います。この守昌の妻は宗運の娘でありました。守昌は宗運の戦い方を真似て戦いを挑みますが、3年間の戦いの後隈荘城は落城します。守昌は降伏して助命を願い追放されます。 隈荘から帰った宗運はすぐに、天正8年(1580)島津氏に味方して阿蘇氏を滅ぼす計画を立てていた隈本城の城親賢を中心に、隈本城主の隈部但馬守、川尻城主の河尻親俊、高瀬城主、宇土氏連合軍を白川の旦過瀬で迎え撃とうと考えます。水練の巧みな御船・甲佐の軍・矢部・砥用・南郷谷・菅尾・小国の馬に馴れた兵士たちの活躍により、408の首をとり大勝します。この時宗運は71歳だったといわれます。

さらに翌年の天正9年(1581)には、起誓文を交わしたはずの相良義陽が、島津氏に降伏し、響が原で阿蘇家に戦いを挑んできます。これを迎える宗運軍は、伊津野山城守に先峰を命じました。山城守は、緑川を渡って日和瀬河原に布陣し、必死に戦いましたが敗れてしまいました。義陽は響が原に陣を移し山城守の首実験をしました。そして兵を休ませ祝宴を開きました。

一方、山城守の死と響が原陣の知らせを聞いた宗運は、直ちに作戦にかかりました。

息子の宗立を飯田山にのぼらせ、人夫を使って崖を削らせ、飯田山に立てこもると見せかけました。義陽は宗運が飯田山で決戦をするのだと確信して、全軍に休憩して祝宴を張りました。

これを知った宗運は自ら選りすぐった精鋭200騎を率いて出発し、谷道を通り密かに、しかも素早く響が原に接近しました。この時まさに夜の12時近くであったといわれます。

相良軍は、この一隊を宇土からの援軍だと思って安心していました。そこに突如、宗運の200騎がいっせいに襲いかかったので、不意を突かれて次々に倒され、大将相良義陽も討ち取られ大敗しました。宗運は大勝して御船に帰陣しました。討ち取った敵の首は408でした。宗運は義陽の苦しい立場を理解し、同情して、その首を直ちに相良側に送り返したといいます。また御船原に丁重に葬って相良塚を立てたといいます。(現在御船音楽大学の前にあります。)響が原には相良廟があります。

その後宗運は『薩摩が肥後には要らなかったのは相良氏があるためだった。阿蘇氏の未来も長くはないだろう』と言ったといいます。

天正10年正月、甲斐宗運は阿蘇大宮司と島津との和平を図り、島津に降伏しました。そのために何とか阿蘇氏は残りました。


宗運の死


宗運によって支えられてきた阿蘇氏も宗運が死ぬことによって没落していきました。宗運は甲斐氏に対し、阿蘇家のために身内や一族、自分の息子たちまでも殺害します。そして、宗運自身も孫娘に毒殺されてしまいます。宗運は遺言に『もし、島津が攻めてきたら御船や甲佐を捨てて矢部にのぼり矢部を守れ。そのうち天下も収まる。』と残しましたが、息子の宗立は父の遺言を守らず島津氏と戦ったため敗れました。やがて、国衆一揆のあと、甲斐氏は滅びてしまいました。


最後に


宗運は衰え行く阿蘇家を守るため、一身をなげうって戦い、阿蘇家を守り続けましたが、内にあっては、肉親の愛情はうすく、子供たちも宗運につかず、不幸な生涯を送りました。彼の死とともに、戦国時代も終わり、やがて織豊の時代となりました。