ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.056 「 くまもとの干拓の歴史 」

講師/鏡町郷土史家  戸田 市治 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「くまもとの干拓の歴史」です。


くまもとは、清正時代から干拓によって豊かな陸地がつくられてきました。全国的にも干拓が盛んなところで、水田総面積の約30%に相当するほどです。その中でも、明治30年代の八代・郡築新地の干拓は大工事として挙げられます。大勢の人達のご苦労の中に、さまざまな文化や風習も誕生しました。人夫頭のだいばどんとお菊の恋物語、干拓民謡を生んだ石組み堤防樋門の「おざや樋門」。現在その干拓には、一面イ草が植え付けられ日本一のイ草産地として名高いところです。


干拓の地 八代平野


八代沿岸地域は、その3分の2ぐらいは干拓新地です。この地域は日本三大急流の一つでもある球磨川と氷川、砂川などの小河川が不知火海に注ぐところ、その砂流によって肥沃な三角州が形成され、地形的、自然的に干拓適地が発達しています。

この地方の動きに大きな変革を与えたのは、武将としてまた土木家として有名な加藤清正が国主として肥後に来た時からで、その後藩主が細川氏に代わっても八代城代松井氏と婚姻関係もあり、また薩摩藩島津氏に対する前衛基地としての軍事的意味もあって、球磨川河口付近の干拓権を与えたので、旧八代町付近から日奈久町にかけての新地も多くあります。ことに藩は、文化、文政の頃になると藩の財政逼迫の救済策として八代、下益城、宇土の三郡に至る大新地開拓の計画をしました。この時、野津手永惣庄屋(竜北町、鏡町など)に任命された鹿子木量平は、今でも有名な四百町開き、七百町開きを行っています。


干拓の祖 鹿子木量平


鹿子木量平は、宝暦3年(1753)飽田郡鹿子木村(北部町)に生まれました。熊本古城を築き歌人としても有名な鹿子木寂心(親員)を祖先にもつ名門の出である量平は、安永2年(1773)父のあとを継いで21才で村の庄屋となりました。庄屋時代は天明の大飢饉(天明3年1783)のとき村民を飢えや寒さから救い、寛政4年(1792)の雲仙岳が地震で崩れて、肥後の海岸に大津波が押し寄せて多くの死者が出たとき、民衆の救済に力を尽くして藩から表彰を受けました。寛政9年には民政の才能を認められて杉島手永(富合町、城南町など)の惣庄屋に任命されて活躍の場を広げ文化元年(1804)には野津手永(竜北町、鏡町など)の惣庄屋に転任となりました。

野津手永は、当時条件が悪く貧しいと言われた所であったので、量平は財政を建て直して農民に働く場を与えるために手永の海岸に干拓新田(新地)を築くことにし、文化2年に先ず百町新地の築造に成功、その収穫から毎年三百三十石を郷備米として蓄えることにしました。のち2回他の手永に転勤して益々民政に努力し、何回も藩の表彰を受けましたが、文化14年再び野津手永の惣庄屋となり、藩が計画した八代郡大牟田沖新地の築造に着手して、新田三百三十町歩(千丁町古閑出)を文政2年(1819)に完成しました。その広さから四百町新田と呼ばれ毎年多くの年貢米が納入されるようになりました。

この成功に気をよくした藩ではさらに宇土、下益城、八代三郡にわたって二千六百町歩におよぶ大干拓新地造成計画を立てて、量平を責任者に任命しました。量平は第一段階として百町新地と四百町新地の全面に七百町新地を文政4年(1821)に完成せしめました。これは肥後藩最大の新田であるが全国的にみても大規模なものでここから毎年二千四百石余、塩千六百石余の年貢が納入されるようになりました。

鹿子木量平は天保12年(1841)に89歳で没しましたが、墓は百町、四百町、七百町の三新地の接する場所に建てられ、隣地に彼を祀る文政神社があります。「藤公遺業記」は藩命によって彼が著したものですが、自分の事業の成功も神恩によると記しています。


堤防の構造


当時の堤防の作り方は、ヘドロの上に、すばやく束ねた木の枝を敷き詰める、それを松の丸太で作った格子状の枠で動かないように押さえます。枠のうえに石を敷き、土を盛ります。最後にこれを石垣で覆うと完成です。


干拓民謡の元祖「大鞘名所」


「大鞘名所」は七百町新地干拓の折、阿村(現松島町)を中心として来た潟担い人夫たちによって創作された労働唄として唄われだしたのが発祥とされています。

誰が唄うともなく、「名所名所と大鞘が名所。名所ナ、大鞘名所にゃ水がない。」とうたわれた。此処で一番困ったのは水であり、その不満を唄にしてぶっつけたのです。「名所名所と大鞘が名所。名所ナ、何の名所か潟名所。」

大鞘といえば賞め言葉ですが、実際は潟ばかりではないか。と罵りにも似た侮蔑の感情をむき出しに唄っています。予想を越える肉体労働の辛さと条件の厳しさに耐え兼ねた辛辣な皮肉であり、憤まんでもありました。然し、作業が軌道に乗り始めると、「水がないなら白島にござれ。名所ナ、行けば白島水名所。」となり、人夫たちの心も漸く治まり、和らいできます。

「水が無いてちゃ名所は名所。名所ナ、出船入船かかり船。」の賑いになっていくのであります。潟担い人夫のこのような心の揺れ、変化が「大鞘名所」の祖型であり心情であったのでした。

面白いのは大鞘が樋門の美称であり地名であるのに、御座館(おざや)、御座屋(おだや)、御台場、おだ山等と唄われ、諫早ではお座屋をおだやと読ませ、役人の御座所としているのは「大鞘」の無理解から来る混乱でありましょう。最近は「お座敷唄」として格調を下げているが、泥にまみれ、額に汗して新地を開いた先人の苦難の姿を正しく継承して欲しいと願いたいものです。