ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.055 「 石光真清 」

講師/ロシア研究家  樋口 欣一 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「石光真清」です。


平成6年(1994)度の熊本県近代文化功労者の一人に、「城下の人」四部作の著者として知られる石光真清が選ばれました。彼は、維新の年、肥後実学党系士族の家に生まれ、15歳で陸軍幼年学校に入りますが、北の大国ロシアの脅威に目覚めて、一生の大半をシベリア、満州での諜報活動に従事しました。

今回は、彼の波乱に富んだ生涯を、様々な人達との出会いを含めて、ロシア研究家の樋口先生に詳しくお話していただきました。


北の大国ロシアへの思い


石光真清は、明治元年に熊本市本山町で肥後実学党系士族の家に四男として生まれます。10歳で西南戦争に遭遇、5年後に志を立てて陸軍幼年学校に入りますが、この時に北の大国ロシアの脅威に目覚めます。

真清のロシアへの関心と懸念は、結婚と長女の出生で一時内向したかにみえましたが、 ロシアの膨張主義の止まるところのない情勢に焦慮はつのるばかりでした。「血潮と代へし遼東に」三国が干渉して、涙をのんで還付するやいなやロシアは、旅順・大連の租借権を求めたのです。真清は遂に家庭を後にして、先ずウラジオストックに渡り、ついでハバロフスク・ブラゴベシチェンスクに至り、ロシア語の勉強をしながら諜報活動に携わります。この間阿部野利恭(熊本学園大創設者)ら多くの日本人と出会い、それらを助け又助けられて任務を果たす手立てを得ます。


からゆきさん達との出会い


真清は、殊に辺境経済を陰で支える日本女性に驚き心を痛めます。シベリアでは世界一長大なシベリア鉄道の施設と、それに伴う都市建設に蝟集する労働者の急増がありました。真清はこれら苦界に身を沈める女性に暖かく接し、旅費を与えて帰国を進めたりします。後に真清が馬賊に捕らえられた時など、拉林の獄舎から救出してくれたのは、以前賓州(ハルピンの東60キロ)の曠野で放浪中を救った三人の女性の一人「お米」でありました。それは幼少の頃真清を格別可愛がった、子守りのミサの転生ではないかと思われます。ミサが祇園山(花岡山)をこえて帰るとき、薩軍に間諜と疑われて捕縛され、屯所から本営に連行されたことがありました。その日祗園橋のたもとに魚取りに来ていた真清が、堤の向こうから後手に縛られて引き立てられて来た女がミサとわかって驚きます。ミサは真清の注進によって助けられましたが、恐らく「お米」にミサの再来をみたのでしょう。真清が数々の危難を乗り越えられたのは決して偶然とは思われません。それは正に天佑としかいいようがない奇跡でした。

真清は念願のハルピンで写真屋を営みます。ブラゴベシチェンスクではロシア軍人の家に寄宿しましたが、ここでも東清鉄道会社のロシア人の手引きで開業にこぎつけ、鉄道の建設や橋梁の完成写真の撮影までロシア軍の特命をうけて行います。「信用は求むるものに非ず、得るもの」と兄事した橘周太(後の軍神橘中佐)の訓えでありましたが、真清の誠実な人柄は生得のものでもありました。真清は横川・沖(日露戦争で挺身隊として活躍)、二葉亭四迷などと会い、ペテログラードから帰任する田中義一(当時中佐)の訪問をうけ、情報の交換をします。以来士は己を知る者の為に死すの契りをもって秘命に献身しますが、この両者の歩いた道を辿ると、余りにも明暗がわかれた人生の機微を思わないではいられません。組織にのった長州人の田中はラインを駈け上がり、肥後人真清は名利を求めぬ孤独の裏方に徹してひたすら任務に邁進します。

以上のようなさまざまな経緯を経て、真清は大正12年に帰郷します。「お国の為さ」といってはいつも見送ってくれた母、病身に鞭うって子等を育て上げ弧閨を守ってくれた妻のもとで、ようやく心のやすらぎを得ます。真清は妻の看病に7年間つくし、最期をみとったのは36年間にも及ぶ辛苦に対する言わば罪滅ぼしでもありました。

石光家の旧居はいま熊本市の本山に現存していますが、やがて解体の日も近いといわれています。また嫡孫には多くの資料も残されているので、いずれの機会にか旧居とともに保存の策が講ぜられて、熊本の近代史の史跡・史料として後世に残すことが出来たならば、真清を歴史に埋もれさせることなく、陰の証言者として「石光真清の手記」ともども永く語り継がれていくものと信じて疑いません。