ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.054 「 西海の乱と夏目漱石 」

講師/西海文化史研究所主宰  鶴田 文史 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「西海の乱と夏目漱石」です。


一昨年は、漱石来熊100年記念、昨年は西海の乱(天草・島原の乱)360年記念でした。実は、明治29年11月に漱石は天草・島原へ5泊6日の旅をしているそうです。このことを『夏目漱石の西海路探訪』(熊日情文センター刊)という本に詳しくまとめられていますので、機会があればご覧下さい。また、天草・島原の乱のことをなぜ「西海の乱」というのか、そして夏目漱石が西海の乱(天草・島原の乱)とどういう絡みがあるのか等を、西海文化史研究所の鶴田文史先生に詳しくお話していただきました。その要旨をご紹介いたします。


「西海の乱」の名称


「島原の乱」というのは、島原・長崎側からすれば「島原・天草の乱」、天草・熊本側からすれば「天草・島原の乱」と、呼び方も違います。したがって、この二つの名称を、どちらかの一つに統一した名称にすることは、やはりむずかしいでしょう。

島原半島と天草諸島の二つの地域が、その間に横たわる有明海を挟んで、一つになって一揆を起こし乱になったことから、その有明海の名をとって「有明の乱」と称しても理屈に合うのですが、それよりもさらにもう一つの名が良い名称として考えられます。

それは、九州の二大乱の内の一つで、明治十年に発生し日本の西南の鹿児島・熊本の地域に展開した大乱、すなわち「西南の役」というのがあります。これに対し、もう一つの乱は、寛永十四年に発生し日本の西の海に通ずる島原・天草の地域で展開した大乱、すなわちこれまでの「島原の乱」、これを「西海の乱」という新しい名称で考えられるのです。

この「西海の乱」という名称は、「島原・天草の乱」と「天草・島原の乱」という二つの名称を、総合的に表現する場合もっとも客観的にふさわしい名称として、これから使用してはいかがでしょうか。


乱の性格と意義


みなさん島原の乱というのは当然ご存じだとは思いますが、この乱には三つの性格があるといわれています。一つは、キリシタンの一揆という形で起きた乱であるということ(一揆というのは、農民たちがある目的のために団結して闘うことで、それが戦争状態になって、政治情勢にまで影響を与えるようになったものを乱といいます)、もう一つは、それが農民一揆、農民戦争であったのだという説、そしてもう一つは、浪人一揆であったという説、この三つがいわれているわけです。この三つとも、どれか一つをカットするというわけにはいかないものですが、大切なのは、この三つがどのように絡んでいるのか、どれが主要なものなのかということの追求と判断ということになってきます。

徳川幕府によって宣伝されてきたのはキリシタン一揆というのが強くて、それが明治以降も大きな影響を持っていたわけです。ところが、昭和の初め頃から、民衆の労働運動、社会運動が盛んになるにつれて、史的唯物論的観点から、「いや、あれは農民の戦いだったのだ」ということがいわれ、そしてさらに、戦後になって日本の民主主義運動の高まりとともに、学界における民主主義的研究も深められて、「天草島原の乱は民主主義の戦いだったのだ、農民一揆が本質なのだ」ということがいわれるようになってきたわけです。


漱石の天草修行旅行


漱石は、明治二十九年四月に松山市から熊本市の五高へ赴任し、同年の十一月に、五泊六日、五高天草・島原修学旅行の引率者の一員として本渡~富岡で二泊三日の天草探訪をしました。漱石のこの旅行については、漱石本人著はないが、幸いにもその全行程は第五高等学校誌『龍南会雑誌』第五十二号に収録されている「丙申天草島原修学旅行隅干日誌」によって知ることができます。漱石らの修学旅行の行程は、熊本~宇土~三角~町山口~富岡~小浜~雲仙~島原~百貫~熊本というふうに、「天草・島原の乱」のコースでした。箱水での演習は乱の本渡合戦、安徳での演習は乱の深江合戦、ともに乱の合戦の再現でありました。漱石らは、天草・島原の乱を研究テーマとして現地実習を行ったのではないだろうかと考えられます。


漱石の二つの俳句


凩や海に夕日を吹き落す

天草の後ろに寒き入日かな

凩や…の句は本渡での山手への夕日ではなく「海に夕日」とあり、それを「落す」ということから富岡での天草灘から東シナ海への落日が髣髴されます。

天草の…の句は、漱石が小天へ行ったとき、金峰山北側下の鳥越の峠を経て、さらに高く見晴らしの良い野出の峠から八久保の集落、そして小天温泉へ旅するその途中の高地、それは天草までも遠望できる野出峠からであると思われます。

また、この二句には、天草の厳しい歴史をとらえた上で詠んだと思われます。"厳しい歴史"とは、迫害によるキリシタンと苛政による農民の歴史などが考えられます。

したがって、「凩」や「寒さ」のなかに厳しい歴史が含まれていると解するのは、天草・島原の乱におけるキリシタン・農民の圧迫されたなかでの命を賭した抵抗の戦いを意味していると思われます。

このように、天下の漱石が私たちのこの熊本へ来たことを聞くこと、詠むこと、見ることでその文芸と歴史を身近に感じ、私たちの心を豊かにし数多くの人々の観光に潤いを与えてくれるでしょう。