ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.053 「 中世の八代 」

講師/熊本県立図書館  高野 茂 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「中世の八代」です。


中世の八代は、中央の権力に直結した都市として発展し、外国にも名が知られた町でした。徳淵の港は貿易商人でにぎわい、大陸との交渉も盛んでした。また、妙見宮を中心とした門前町、相良氏の勢力下にあった古麓の新城を中心とした城下町の要素も加わって、にぎやかさを増しました。大陸的な要素は、11月23日に開かれる九州三大祭り「妙見祭」にも受け継がれています。

今回は、中世の八代がどういうふうに栄えていったか、先のこととからめて、熊本県立図書館の高野先生に詳しくお話していただきました。その要旨をご紹介いたします。


自然が美しい八代


今から410年前の天正15年4月、八代に到着した宣教師ルイス=フロイスは、「日本史」で、八代の情景などを描写しているが、それは、次の3つに特徴づけられよう。

 一、八代の自然が美しく、清らかで、優雅で、豊饒であること。(これだけ自然を賛美している箇所は「日本史」全体でも少ない。)

 ニ、多くの寺院が散見し、小鳥たちの快いさえずりが満ちあふれている。

 三、城が非常に高い台地にあり、麓には主要な町が開け、町へは海路からでなくては入ることも登ることも出来ないようになっている。

また同じく豊臣秀吉から毛利に宛てた手紙には、「ご覧候へは、奉公人・町人・其他百姓男女にて、五万も可有候もの」とある。秀吉には誇張癖があるので、勿論割り引いて考えなければならないが、博多や豊後府内と比べても人口に遜色なく、外国にも知られた九州有数の大都市だったと考えられる。


歴史の移り変わり


八代のこのような発展の背景を知る手がかりとして、八代の歴史の流れを見てみる。

平安時代末期、八代南郷を平清盛が大功田として賑わったと言われ、鎌倉時代には平家没官領として源頼朝の妹に与えられ、その後、北条氏の支配下に入った。建武政権下においては、後醍醐天皇から名和氏が八代荘地頭職を賜り、正平13年(1358)に名和氏の支配を受けるようになった。永正元年(1504)には、球磨郡から相良氏が八代に進出し、約80年にわたる芦北郡を含む三郡支配の戦国大名として君臨した。その後、島津氏の支配を受け、天正15年(1587)には秀吉の九州制圧を迎えることになる。秀吉は八代を蔵入地(直轄領)にしたと言われる。

八代は、中央権力に直結した都市的要素を帯びた土地であった。その最大の理由は、清盛・名和氏・相良氏・秀吉のいずれにも共通する「海」であろう。特に貿易港としての機能が重視された。


海で栄えた港町 = 徳淵


史料を見ると、八代太守が李氏朝鮮へ遣使している記事が見られるし、流球からは、円覚寺全叢が相良氏の琉球への進上物のお礼として砂糖150斤を贈っている。相良の貿易船としては「市木丸」の名が出てくる。「八代日記」は、弘治元年(1555)の記事として、3月2日に渡唐の門出をした市木丸が7月2日に徳淵に帰港したことを伝えている。また、徳淵に住むかさ屋や森などが貿易船を派遣したり、18隻の船団を組んで渡唐の門出をしている。貿易輸出品としては、銀・刀剣などであり、銀については、宮原で銀石が発見され、相良氏は「日本珍物」と喜び、洞雲があらいきり(八代市洗切)で銀の精錬をしている。刀工として「木下」の名が見える。輸入品としては、白麻・唐糸・唐織・蘇香圓・沈香・唐扇子・猩々皮・虎豹皮などが見られる。徳淵港は、他国の商人の出入りで賑わい、かさ屋や森などの町衆は、島津氏の家臣を接待したり、宿を提供するなどの政治的な関わり、能や茶寄合などもおこなうなど、文化的教養もあった。


相良氏の戦国城下町 = 古麓


戦国時代に相良氏が拠点としていたのが、古麓一帯である。

「八代日記」には、本城(間切や九間が見られる)・鷹峰城(番衆が詰める)がみえる。

勿論、この時期だから、天守閣はなく、新城には、平屋の館(やかた)が造られ、賓客を迎える九間などがあったものと考えられる。

新城の麓一帯は杭瀬三町(一日市・七日市・九日市)とよばれる商業地区や相良家臣団の屋敷郡、外交使節の接待や使僧、軍事に利用された寺院群が建ち並んだ。ここには、道路を挟んで両側に建つ家並みなどが見られた。


妙見社を中心とした門前町 = 宮地


宮地には妙見社(八代市妙見町)があり、一帯は門前町として繁栄し、薬屋なども見える。妙見祭は、旧暦の10月18日(現在11月23日)に行われており、神楽舞や馬場での流鏑馬も行われ、近隣の村人や旅衆の見物もあり、祭りは盛んであった。(「上井覚兼日記」)

(現在のような亀蛇や笠鉾などが繰り出す祭礼行事になったのは、松井直之の元禄の頃といわれる。)

このように、八代は、相良氏の城下=古麓と八代町衆の港町=徳淵と妙見社を中心とした門前町=宮地がミックスされた肥後最大の都市であった。

また、八代は文化的にもレベルが高かった。相良為続が九州から唯一人「新撰菟玖波集」に入選したように連歌が盛んに行われた。連歌の師である遊行上人を招いて、会所で千句連歌を興行している。能楽も盛んで、宗像右衛門太夫が度々能を演じている。能は、一部の武士たちだけのものでなく、町衆たちも演じているところに文化の高さが感じられる。