ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.052 「 阿蘇家 浜の館 」

講師/熊本県立装飾古墳館副館長  桑原 憲彰 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「阿蘇家 浜の館」です。


阿蘇神社の大宮司を務める阿蘇氏は、中世は阿蘇谷・南郷谷を中心に絶大な勢力を誇っていました。「浜の館」とは矢部町にあった中世の阿蘇大宮司の館であり、昭和49年に県の文化課により行われた発掘調査で青磁器・天目茶碗・水甕などの陶磁器類を初め、阿蘇氏が隠しておいたと思われる21点に上る宝物類も発見されました。今回は、その発掘調査を手懸けられた桑原憲彰先生に当時のエピソードを交えて語っていただきました。その要旨をご紹介いたします。


連綿として続く家柄・阿蘇氏


まず、この浜の館を構えていた阿蘇氏の事について触れておきます。

阿蘇氏は、大和朝廷の全国統一の以前から阿蘇谷を根拠地とする豪族でしたが、延暦15年(796)以来しばしば朝廷に火山活動を報告し、その度に神の位階は昇進し阿蘇氏の権威は高まっていきました。

平安中期、荘園制が進むに従い、承暦年間(1077~80)には中央権力と結び大宮司として領主的支配を展開します。そして十二世紀後半までに甲佐、郡浦(三角町)、健軍神社を末社としてその社領も支配下に組み込み、こうした経過のなかで、小国、矢部を加え、武士団の棟梁としての成長を遂げています。

鎌倉時代に入ると、このような阿蘇氏の成長に伴い、その勢力も阿蘇谷から南郷谷へ、そして外輪山を越え、小国、矢部へと広がっていきます。矢部浜町に大宮司の本拠地としての「浜の館」が設置されたのはこの時期の、承元元年(1207)頃で、文献は鎌倉初期の惟次大宮司をもって浜の館の祖としています。

そして大宮司兼武士団の棟梁としての地位を戦国期まで保持し、近世以後は阿蘇神社の神官として現在に至っている由緒ある家柄です。現在阿蘇郡一宮町にある阿蘇神社の阿蘇惟之氏(91代)が、その末孫であることは周知の通りです。

このように、国家形成以前からもっとも明らかな形で連綿と続いている家は他には天皇家、出雲大社の千家家など数える程しかなく、貴重な存在でもあるわけです。


浜の館出土の宝物類


「浜の館」とは、上益城郡矢部町城の平にあった中世の阿蘇大宮司の館です。

地元に残る伝承を手がかりに昭和49年(1974)県文化課で発掘調査した結果、伝承どおりの館の遺構が数百年ぶりに姿を現しました。この調査によって、桁行七間、梁間四間の家のほか数棟分の家屋の礎石や庭園などが、火災に遭い倒壊したままの状態で発見されました。また、焼土中から灯明皿、青磁器、天目茶碗、水甕などの陶磁器類を初め金張りの笄や太刀の鞘の一部飾り金具、中国の銭貨などが発見され、さらに庭園の池のほとりに掘られた二つの穴から、浜の館最後の日に阿蘇氏が隠しておいたと思われる21点に上る宝物類も発見されました。

第一の穴からは黄金延べ板(一個)、玻璃製坏(三個)、白磁置物(二個)、第二の穴からは三彩鳥型水注(二対)、緑釉陰刻牡丹文水注(一対)、染付牡丹唐草文瓶(一対)、青磁盒子(一個)などで、21点一括して国の重要文化財に指定されました。これらは中国明時代の十六世紀ごろ福建または広東付近の地方窯で焼かれたものと見られています。現在は、熊本県立美術館に保管されています。


伝承の中に生きていた浜の館


私たちが浜の館の存在を伝える伝承を信じず見過ごしていたとしたら、今頃、昔矢部町のどこかに浜の館があったという伝承のみを残し実在の館は永久に葬り去られるところだったでしょう。往々にして私たちは地元に残る伝説や伝承を無視する傾向があります。しかし「浜の館」は、この地方の伝承の中に数百年前の史実を秘めて生きていたのです。伝説や伝承の重みをあらためてかみしめてみたいと思います。