ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.051 「 八雲と街角の地蔵尊 」

講師/郷土史家  正清 素悟 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「八雲と街角の地蔵尊」です。


ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、明治二十五年、松江中学から五高の英語教師として熊本にやってきました。日本文化をこよなく愛した八雲は毎朝、神棚に拍手を打って五高に出かけたといいます。坪井の家の前にある地蔵尊は、八雲のお気に入りでした。今回は、正清先生にこの地蔵尊と八雲についてご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


坪井に残る八雲ゆかりのお地蔵さん


小泉八雲が節子夫人を伴って、松江から熊本に赴任したのは、明治二十四年十一月のことでした。最初に住んだのは、手取本町の家。この旧居は鶴屋の裏手に移築され、八雲旧居として一般に公開されています。この家で「知られぬ日本の面影」を書き、一年ほど住んでから、翌年坪井に引っ越しました。

二度目の坪井旧居跡には新しいビルが建ち、昔日の面影は薄れていますが、記念碑に八雲のことが刻まれており、この旧居跡の前に八雲が好きだった東岸寺のお地蔵さんがあります。私の家はこの通りの角です。毎日、水かえ、お参り、掃除をして、近所のみなさんと一緒にお地蔵さんを守り続けています。私もお世話をしているうちに、次第に八雲にのめりこみ、ご近所で八雲とお地蔵さんを愛する輪が広がってきました。

この坪井の家で、八雲夫妻には待望の長男一雄さんが誕生します。命名については、ラフカディオをもじったものだとか。平成七年に手取本町の八雲旧居が改装オープンした際に、八雲の孫の時さん夫妻と長男の凡さんが来熊。坪井の永福寺御堂で歓迎会をし、その後もおつきあいをしていただいています。


ギリシアの島で生まれ、各国を転々と


小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、一八五〇(嘉永三)年、ギリシャのサンタ・モウラ島で生誕。父はアイルランド人で軍医少佐。英国領になっていたこの島に着任した父と、ギリシャ人の母から生まれました。四歳で両親が離婚したため、イギリスに帰り、十九歳でアメリカに渡り、各地の新聞社などに勤め、文才を発揮して紀行文・小説・翻訳を発表しました。

明治二十三年四月、日本紀行取材のため来日。その後招かれて松江に行き、松江中学で教鞭をとり、翌年、熊本に来た訳です。熊本を去ってからは「神戸クロニクル」の記者、東大の英文学の講師を勤め、早稲田でも教壇に立ち、学生たちに文学の真髄を教えました。節子夫人に見守られながら八雲が五十四歳で昇天したのは明治三十七年九月二十六日のことでした。


地蔵まつりを詩情豊かに描く


八月二十四日の宵、坪井の東岸寺の地蔵さんでは、八雲の時代から続いている「地蔵まつり」が開かれています。彼は「東の国から」の中の「生と死の断片」という文で、そのお地蔵さんのことをこう書いています。

「七月二十五日、今週私の家には、いつにもない、三つの風変わりな訪れがあった。」という書き出しで井戸さらえ、消防ポンプ、地蔵まつりの話が出てきます。

家の前の地蔵堂の祭りの費用の寄付に近所の子供達がやって来たので、喜んで寄付をした。あとで八雲が出てみると、地蔵さんは美しく清掃され、飾りをされ、造り物の大きなトンボが置かれていました。そのことに余程感銘したのか、翌朝朝早くその堂がすでに花と奉納の提灯で飾ってあるのを見た。新しいよだれかけが地蔵の首の回りにかけられて、と書いています。造り物のトンボは、「胴体は色紙でくるんだ松の枝、四枚の羽は四つの十能、ぐりぐり光った頭は、小さな土瓶である」ことが分かった。

節子夫人は「思い出の記」の中で八雲が好きだったものとして杉の並木、淋しい墓地をあげています。彼は講義の合間に五高裏手にある泰勝寺跡や小峰の墓地をしばしば訪れました。八雲が好きだった鼻欠け地蔵も小峰墓地の一角にあります。

ところで、壺川校区では八雲の第二旧居から子飼商店街までを、「八雲通り」と名付けるよう運動しています。また、九月二十七日夜七時から、八雲旧居で八雲の怪談「耳無し芳一」「雪女」などの朗読会があり、八雲の人気は益々高くなりそうです。