ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.050 「 梅北の乱と佐敷城 」

講師/芦北町郷土史家  山下 勉 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「梅北の乱と佐敷城」です。


梅北の乱とは、加藤清正の時代に薩摩の武将梅北国兼によって芦北の佐敷城が乗っ取られた事件です。天正二十年、秀吉の命により佐敷城代加藤重次は加藤清正に従って朝鮮出兵しました。その留守に梅北ら薩摩勢三百余人は佐敷の農民を味方に引き込み、佐敷城を攻めました。留守を預かる坂井善左衛門らは無勢のため城を明け渡しますが、酒宴を張って梅北を油断させ、すきに乗じて梅北の首を討ち取り城を奪回しました。今回は、梅北の乱と佐敷城について山下勉先生にご講話いただきました。その様子をご紹介します。


梅北は秀吉を討つために一揆を起こした


佐敷城でもっとも有名な事件といえば、「梅北の乱」であろう。この乱は、太閤秀吉の晩年に起こった事件で、その秀吉と関わりがあり、最近では高校の教科書(三省堂・『詳解日本史』)にも載るほど、新たに注目を浴びている。

事件の概要は、薩摩湯之尾(現菱刈町)の地頭・梅北宮内佐衛門尉国兼という者が、秀吉を討つために徒党を組み、天正二十年(一五九二)年六月十五日、その手始めに佐敷城を襲撃し、乗っ取ったというもの。

当時は、これを「梅北一揆」とよんでいる。この結末は、一揆の首領とされる梅北国兼が、佐敷城を奪取してから三日後、留守居の武士によって謀殺され、事件は一件落着した。

ここで、「一応落着した」といったのは、事件そのものは、首領の梅北が殺害され、一味も大方成敗されて、佐敷城は、また、平穏にもどったためであるが、実は、この事件後、秀吉政権が取った処分は、意外な方面に及んで、すぐには終わっていないのである。つまり、事件そのものは小さかったが、この後の処置の方が大事件となったという特徴がある。

そのころの佐敷城は、秀吉配下の加藤清正が領し、薩摩の国や相良の国に対する重要な「境目の城」とされていた。だから、清正は堅固な築城を期待してか、有名な石工集団の穴太(あのう)族と同郷である加藤與佐衛門重次に、二十五人の与力を付け、佐敷城城代として守らせていた。

ところが、城代の與佐衛門重次は、太閤秀吉の命により、加藤清正に従い朝鮮に渡っていた。つまり、その留守を狙われて佐敷城は奪われたのである。


乱の黒幕として、詰腹を切らされた島津歳久


事件の詳細な経過については、別に述べるつもりだが、この一件には大変謎が多い。たとえば、一揆の張本人は、はたして梅北国兼だけなのか。また、その原因も、国兼一個人の理由とも、秀吉の島津征伐の恨みからとも、朝鮮出兵の拒否からとも、他にいろいろ取り沙汰されているが、はたしてどの説が正しいのか判断がつきかねる。さらに、加担した人数やその出身及び所属関係、あるいは、佐敷城留守居たちの謀略の模様や謀殺の状況など、従来の記録はさまざま述べているが、決め手になるものは見当たらない。

いずれにしても、秀吉から「悪逆人」と名指しされた国兼は、佐敷城留守居たちによって首を取られ、また、「同意奴原(どういやつばら)」もことごとく討ち取られたのである。梅北国兼の首は、唐津の名護屋城に届けられ、浜辺に梟首(きょうしゅ)されたといい、遺体は佐敷五本松に埋められたという。(注・墓標は平たい自然石で、銘は何もなかったといわれる。)また、この一揆にかかわったということで、国兼の黒幕とされた島津歳久が詰め腹を切り、一揆に家臣が参加したという理由で、阿蘇宮司で当時十三歳の阿蘇惟光が熊本花岡山で斬首され、密謀の同盟者とされる佐賀の江上家種は、意外な変死を遂げるなど、どれも悲惨な決着をつけられている。

これ以上に哀れだったのは、梅北国兼の家族である。国兼は、このとき湯之尾の地頭だったが、身辺の重臣たちは、山田地頭時代の家来が多かったようで、一揆失敗の知らせは、姶良町史によれば、「国許(山田郷)の北山にも知らせの使者が七人出た。この人々は、やっと北山にたどり着き、国兼の奥方に密議の不成功と国兼の死を告げ、後は従容として『七ツ島』で切腹し、国兼に殉死したのである。」と記している。幸い子供たちは、追悼の目を逃れ、散りじりになって生き長らえたという。だが、国兼の妻は捕らえられて名護城へ連行され、秀吉に仕えるよう強要されたがそれを拒み、衆人環視の中で、生きたまま火あぶりの刑に処せられている。


梅北は神様として祀られ人々の信望を集めた


このような悲劇に終わった梅北一揆だが、なぜか梅北国兼は、その後、国許とされる山田庄馬場に「神」として祀られ、その徳がたたえられている。現在も馬場の山中に、梅北神社はひっそりと建っている。神社の前面には、二基の石灯籠と「梅北神社」と雄渾に彫られた石碑が建っている。石灯籠には、貞享(一六八四~一六八七)と元禄(一六八八~一七〇三)の記念碑があるので、この神社はかなり古くから祭祀されていたことがわかる。また、石碑の筆者と献納者は、あの西郷隆盛の実弟・西郷従道である。なんだか、梅北一揆の真相が此処に垣間見えるような気がしてならない。

つまり、もし一揆が成功していれば、梅北国兼は薩摩藩の英雄として正々堂々尊敬を集めただろうが、失敗したため見殺しにされたのではないか、と勘ぐりたくなる。これには、唐津名護屋に在留していた薩摩藩主、島津義久の許へ、国兼が殺害されて一揆が失敗した報告を、国兼の部下が告げに行ったが、この使者は極秘のうちに消され、事件とのかかわりがやみに葬られた事実も、尚一層、国兼は、何かの密名によって動いたのではないか、と憶測したくなる。

とにかく、梅北一揆は謎に満ちた事件であり、今後、新たな事実が出る可能性を秘めている。