ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.049 「 田原坂で戦死した陸軍伍長、谷村計介 」

講師/郷土史家  坂田 幸之助 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「田原坂で戦死した陸軍伍長、谷村計介」です。


谷村計介は、西南戦争のとき熊本城に籠城した陸軍伍長で、熊本鎮台司令少将谷千城の命を受けて密使となり、高瀬の官軍本営との連絡を無事に果たしたのち、田原坂の激戦で壮烈な戦死をとげました。今回は、谷村計介の生涯について郷土史家の坂田幸之助先生に語っていただきました。その要旨をご紹介いたします。


宮崎の倉岡村で誕生


明治十年(一八七七)の西南戦争の中で、谷村計介にまつわるエピソードは最も有名で今も語り継がれています。戦前の小学校の終身の教科書にも「ちゅうくんあいこく」と題して紹介されていました。

谷村計介は、その武勇伝とはうらはらに薄幸の生涯でした。出身地は宮崎県東諸県郡倉岡村(現在の宮崎市大字糸原)。嘉永六年(一八五三)、郷土の坂元利衛門とウメの次男として生まれました。わずか生後三カ月で母ウメが急変し、当時九歳だった姉のワサが親代わりとなって一里も離れたところへ計介を抱いて「もらい乳」に出かけたり、重湯を飲ませたりして育てました。

計介は四歳で親戚の谷村家の家督を継ぐために養子となり、以後谷村姓を名乗ります。明治三年、十八歳になった計介は向学心に燃え、鹿児島県の園田塾に入門します。学問にいそしんでいた計介ですが、翌年帰郷すると、実父の利衛門は従姉妹の丸菅源五衛門の長女トヨと計介の婚約を決めており、祝言を挙げさせられます。計介は驚きましたが、結婚後は幼馴染ということもあって夫婦仲は良かったようです。


熊本鎮台の鹿児島分営へ


明治五年二月、計介は妻子を郷里に残したまま志願して熊本鎮台鹿児島分営に入隊。間もなく長女が誕生しますが、計介は郷里に帰れないまま、長女はわずか生後四十二日目に亡くなってしまいます。愛しい我が子を抱くことはおろか、その姿さえも見ることはできませんでした。

その悲しみを振り切るかのように、計介は佐賀の乱、台湾征伐、神風連の乱、秋月の乱と、明治初期の動乱の時代に力のかぎり奮戦し、武勇を高めます。尚、陸軍伍長に昇格したのは佐賀の乱の戦功によるものでした。

計介が熊本歩兵第十三連隊に転属したのは、明治九年十二月のこと。その翌年、運命の西南戦争が勃発します。


谷千城の密使として熊本城から高瀬へ


薩軍が北上して熊本を攻めたとき、計介は熊本城の籠城群の中にいました。熊本鎮台司令少将千城の密令を受けて、高瀬(現玉名市)の官軍本営に熊本城の状況を報告するため、二月二十六日ひそかに城を脱出します。体にすすを塗り、ボロをまとい、闇にまぎれた夜道をひた走る計介。途中、本妙寺で薩軍に捕らえられるものの、隙を見て逃亡。翌二十七日、佐々友房が守る吉次峠(現玉東町)で再び捕らえられます。「老母を残して来たので、城を脱出した」と命乞いをし、木留の熊本隊本営の人夫として握り飯運びなどを手伝わされます。

三月一日夜、再び脱出に成功して、翌二年午後ほうほうの体で、やっと目的の高瀬の官軍陣地に到着しますが、ボロをまとった姿に薩軍の密偵と疑われ、船隈の官軍本営に連行されてしまいました。計介が何と訴えても信用されませんでしたが、幸い旅団参謀山脇大尉によって疑いが晴れ、計介は薩軍の情勢を旅団長野津少佐に報告。これによって官軍を勝利に導いた功績は、西南戦争の中で最も有名です。

忠君愛国として教科書に載るほどの業績を残した計介でしたが、残された家族は村人によって冷遇されたようです。糸原地区で薩軍に加わった者六十二名に対して、官軍に入隊したのは計介を含めて、わずか二名。実兄の祐光も薩軍に加わっており、除隊願いを出しましたが、陸軍によって許可されませんでした。計介も本心は薩軍に入隊したかったようです。

三月四日から田原坂での激戦が始まりますが、その最初の戦闘の日、計介は壮烈な死を遂げました。計介の亡骸は宇蘇浦の官軍墓地に葬られ、郷里の糸原にも墓が建てられました。激しい戦闘の場となった田原坂公園の一角には、谷村計介戦死の地の碑が建てられました。とにかく武勇伝ばかりが語られがちですが、西南戦争には隠れた悲しい物語があったこともご理解いただきたいと思います。