県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。
今月のテーマは、「肥後の石工・岩永三五郎」です。
熊本は全国でも有数の眼鏡橋のメッカ。緑川流域を中心に弧を描く眼鏡橋は今もどっしりとした雄姿を見せています。熊本には江戸時代末期から「種山石工」という技術者集団がありましたが、中でも岩永三五郎は砥用町の雄亀滝(おけだき)橋をはじめ、鹿児島の甲突川に五大石橋を架けた石工の棟梁として有名です。今回は、岩永三五郎について、村上成功先生に語っていただきました。その要旨をご紹介いたします。
眼鏡橋の秘密は円周率にあった
肥後種山の石工について語るとき、まず藤原林七のことを話さなければなりません。
林七は長崎奉公所に勤める武士でしたが、長崎の町中に架かる眼鏡橋の築造の秘密が円周率にあることを学びとりました。異国の技術を学んだ林七は、役人に追われ、長崎を出航し、現在の鏡町のあたりに上陸しました。
当時、八代海では干拓が行なわれており、ここで岸壁を築く石工として活躍していた宇七と出会います。二人がどのような交流をしたのか知る術はありませんが、林七は宇七から石工としての技術を習うと共に、石橋架橋に没頭し曲尺の活用を知り、ここから種山石工集団が誕生したのです。
三五郎は藤原林七の子ではなかった
岩永三五郎は、(注)寛政五年(一七九三)八代郡種山村(現東陽村)に宇七の次男として生まれたという。宇七は林七の別名で三五郎は林七の子という説もありますが、私たち縁故者の会事務局の調査によれば、宇七と林七は別人です。
下益城郡小川町専行寺の過去帳に宇七は嘉永二年四月二十一日没となっており、一方、林七は東陽村西原に墓があり、この墓石に天保八年十一月二十日没となっているからです。故に宇七と林七は別人であり、宇七は林七の石工としての師匠と思われます。
種山石工の棟梁は二代の嘉八から三代の卯助へと受け継がれています。三五郎が林七の子であれば、当然三代を受け継ぐはずです。林七は師匠宇七の子である三五郎を自分の子どものように可愛がり、石橋の秘伝を授与したのでしょう。
三五郎に男の子がなかったので、兄の子の大蔵を養子にし、嘉八の娘・勘五郎の妹を嫁に迎え、この時、両親は親戚になったのです。
三五郎の名を一躍有名にしたのは、二十五歳の時、砥用に雄亀滝橋を架橋してからでした。この石橋は日本で初めての水路橋で、通潤橋の見本となった橋です。その後数年間八代新地の干拓で活躍(三五郎樋門)したことから二十九歳の時、肥後藩より「岩永」の姓を賜りました。(岩永の姓は後年薩摩藩から賜わったと言う説もあります。)
心と心をつなぐ眼鏡橋
その後も三五郎は鑑内橋や聖橋、浜町橋など、次々に橋を架け続け、その名声は隣藩にも聞こえ、天保十一年(四十八歳)、石橋を架けるために薩摩藩から招かれます。家老の調所笑左衛門広郷の命を受けて、抱真橋を架ける途中、築造中に大水が出て、橋が流されそうになった時、三五郎は荒れ狂う濁流の中に飛び込み、川底にもぐって橋の土台の部分を調べたといいます。その功労により薩摩藩より苗字帯刀を許されます。
三五郎には円周率の計算をはじめ理論と技術にたけていただけでなく、石づくりへの気迫が感じられます。こうして三五郎は甲突川五橋など三十七の眼鏡橋を架橋しています。 三五郎は五十七歳で薩摩から肥後へと帰る途中、薩摩藩の内情を知りすぎたために刺客に襲われますが、三五郎の人柄をよく知っていた刺客はどうしても彼を殺すことが出来なかったというエピソードが残っています。
帰省後、氷川を境に南部を三五郎の「野津組」が、北部を卯助らの「種山組」が担当する協定を結び、互いに切磋琢磨しながら、橋を架け続けました。
鹿児島での重労働がこたえたのか、肥後に帰ってきてわずか二年後、三五郎はその生涯を終えました。父と同じく専行寺の過去帳に芝口で亡くなったことが記されています。
人と人をつなぎ、心と心を結んだ眼鏡橋。岩永三五郎の徳は代々語り継がれ、鹿児島の祇園之洲公園には平成二年十月に三五郎の石像が建てられました。三五郎ゆかりの鏡町にも平成八年十月に三五郎の石像が建ち、その像は静かにふるさとを見守っています。
注)三五郎の誕生は寛政四年という説もありますが、墓に刻まれた没年から逆算してゆくと、寛政五年と思われます。
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