ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.047 「 天草、富岡城物語 」

講師/郷土史家  鶴田 倉造 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「天草、富岡城物語」です。


天草郡苓北町の富岡は、江戸時代から明治6年に本渡に天草支庁が移るまで、天草の政治・経済・文化の中心地でした。その富岡のシンボルともいえる富岡城には、さまざまな歴史のドラマが秘められています。今回は、鶴田倉造先生に「天草、富岡城物語」と題して語って頂きました。その要旨をご紹介します。


中世からあった不落の富岡城


中世の天草を支配したのは、志岐・天草・上津浦・大矢野・栖本の天草五人衆でした。苓北を根拠地としたのが、志岐氏です。従来、富岡城が築造されたのは近世になってからというのが定説でしたが、最近の調査によれば、すでに五百年前に富岡城はあったと推測されます。中世の城は櫓を建てただけの小規模な山城で、天草だけでも五十程もありました。

肥後国衆一揆が終わり、佐々成政に代わって肥後南藩の領主となった小西行長は伊知地文太夫を遣わして天草を攻めました。苓北の志岐氏は富岡城で応戦し、伊知地文太夫は討死にしてしまいました。記録に袋の津山とありますから、このときも今の富岡城で戦ったものと思われます。

関ヶ原の戦い(一六〇〇)の後、天草を領有した唐津の寺沢広高は、唐津に近い富岡に着目。中世からの城があった場所に新しく城を築きました。この時代に建てられたのがいわゆる近世富岡城で、石垣のある城郭でした。熊本城・八代城・人吉城は近世城にあたります。その築城技術は加藤清正や寺沢広高らが朝鮮出兵の際に朝鮮の城郭から学んだものと思われ、鉄砲という近代兵器に備えるための要塞でした。

寺沢広高が建てた富岡城の規模は本丸東西二十間、南北十二間、二の丸東西十一間、南北四三間の偉容を誇っていたといわれ、古城図や城址の実測調査でも大体裏づけられています。


天草・島原の乱は、復宗運動だった


長い戦乱の時代が終わり、泰平の世となった江戸時代にあって、幕府を揺るがせたのは天草・島原の乱でした。一揆軍の総大将となった天草四郎は、小西浪人・益田甚兵衛の子で、零名をフランシスコと称し、幼少のころから種々の奇跡を行い、天童と呼ばれました。 天草・島原の乱は、天草を支配した寺沢氏と島原の松倉氏による圧制とキリシタン弾圧がその原因と言われていますが、島原はともかく天草には少し違う事情がありました。幕府のキリシタン禁教令により、キリシタンの弾圧が激しくなり、一六三〇年頃、天草の人々はほとんど転宗、棄教してしまいます。ところが、それから数年、天変地異が起こり、日本国中が飢饉に陥ります。四郎をはじめ天草の人々は、キリシタンを棄教したことに対する天災が起こった。天が我々を見放して、天罰を下したと考えるようになり、天草の各地で大がかりな復興運動を起こします。この復宗運動が天草・島原の乱の要因と考えられます。

寛永十四年(一六三七)十月、島原の一揆に呼応して天草の大矢野島でも一揆が起こり、上島にも波及して、一揆軍は富岡城を攻めます。この時、富岡城を守っていたのは、唐津藩の筆頭家老・三宅籐兵衛でした。籐兵衛はガラシャ夫人の甥で、肥後藩主の細川忠利の従兄弟にあたる人。本藩の唐津には二回ほどしか手紙を出していないのに、細川藩にはしばしば手紙を出しており、その親密ぶりが伺えます。

三宅籐兵衛は本渡まで出張って、そこで討死し十一月十九日に一揆軍は富岡城に迫りました。城を守る唐津藩兵約三〇〇〇人に対して、城を取り囲む一揆軍は約一万人。総攻撃をかけますが、富岡城の守りは固く、攻め落とすことはできませんでした。

その後、一揆軍は島原の原城にたてこもりますが、松平信綱率いる幕府軍によって、翌年の二月二十八日に落城し、ここに乱は終息します。


それからの富岡城


天草・島原の乱後、天草は山崎家治に与えられ、城郭を拡大するなど修改築に着手しました。その後、天草はいったん天領となり、鈴木重成が代官として派遣されますが、重成は城下に住み、富岡城は熊本藩の侍が警護にあたりました。

その後、天草は戸田忠昌の領地になりますが、幕府の命によって寛文十年(一六七〇)に富岡城は壊されてしまいました。いわゆる戸田の破城の後、再び天草は天領となり、富岡城には代官所(陣屋)が置かれ、明治維新まで富岡が天草の政治・経済・文化の中心として栄えました。

富岡城に対する天草の人々の思いは強く、現在富岡城復元に向けて、計画が進められています。