ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.043 「 肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき) 」

講師/郷土史家  荒木 栄司 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「肥後国衆一揆」です。


肥後国衆一揆とは、加藤清正が肥後に入国する前年、肥後北東部の国衆(地侍)が領主佐々成政に対して起こした大規模な一揆です。この国衆一揆は、なぜ起きたのか、どんな戦いだったのかについて、荒木栄司先生にご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


肥後の国衆一揆はなぜ起きたか


戦国時代も末期の天正十五年(一五八七)の夏から、約半年間、肥後北東部の国衆が中心になって、領主の佐々成政に対して、大規模な一揆を起こしました。これがいわゆる国衆一揆です。

国衆とは、地侍ともいい、その土地を所有し、民政・軍政を担当していた戦国領主のこと。肥後には五十数人の国衆がいて、阿蘇・上益城を社領とする阿蘇大宮司家、菊池・山鹿・鹿本を支配した隈部親永、山本郡(現在の熊本市北区植木町と山鹿市鹿本町)の内空閑鎮房、人吉・球磨の相良長毎が有力でした。

その頃、全国をほぼ平定した豊臣秀吉は、朝鮮さらに明国への出兵を考えるようになり、肥後をその兵站(へいたん)基地にするために、佐々成政を肥後の領主に任命。肥後は難治の国であったため、かつて越中を治めていた成政を抜擢したのです。秀吉は兵力を維持するための兵糧米を確保するために、諸大名に「太閤検地」を実施させます。

太閤検地は、耕地の耕作人(納税者)を決め、その土地を実測し、地味査定(耕地に上・中・下・下々の等級をつけること)を行なうもので、これが実施されると、農民は全ての大名の支配下に置かれてしまい、国衆は所領を減らされ、その基盤を失うことになります。また、農民にとっても七公三民という厳しい課税がされるため、検地は死活問題でした。

佐々成政は、隈本城(古城)に、国衆たちを呼び集め、最も有力だった隈部親永から検地を行なう旨を告げました。国衆たちはそれ以前に秀吉から「本領安堵状」をもらって領地は保障されていたはずでした。隈部親永ら国衆は、検地に応じようとせず、怒って居城に帰り、ここに国衆一揆が勃発したのです。


山鹿の城村城、和仁の田中城での攻防


真っ先に兵を挙げたのは、六万石以上の大名に匹敵する勢力を持っていた隈部親永でした。佐々成政が、隈部氏の居城の菊地城を攻めると、菊池城はあえなく落城。隈部親永は息子の親泰とともに山鹿の城村城に立て篭もります。

岩野川をへだてて日輪寺の向いにある城村城を、佐々成政が攻めている最中、手薄になった隈本城を益城方面の国衆が攻め立て、隈本城は危うくなります。成政は城村城に城兵が外に出られないように門に城を築く、いわゆる付城をして、ひそかに隈本城に帰ります。この時、佐々宗能を影武者に仕立て植木方面に帰らせる途中、内空閑氏の兵士によって宗能は殺されてしまいますが、成政は無事隈本城に帰還します。

隈本城は落城寸前でしたが、秀吉が隈本城に人質にとっていた阿蘇大宮寺家の阿蘇惟光、惟義を成政は巧みに利用し、益城の国衆を同士討ちにし、難を逃れます。

その間、城村城の付近(成政軍)の食糧が底をつき、成政は、柳川藩の立花宗茂に援軍を頼みます。和仁の田中城(現和水町)に立て籠もっていた国衆の和仁親実や、大田黒城に立て籠もっていた大津山家稜は、立花氏の軍勢とも一戦を交えました。しかし、成政軍は守勢一方であったため、ついに秀吉に援軍を頼みます。


肥後中世の終焉、そして近世へ


十月一日から京都で大茶会を催していた秀吉は、急ぎ茶会をとりやめ、肥後国衆一揆勢に対して、九州・四国各藩から約二万人の軍勢を送り込みます。隈部氏をはじめ武士農民が一万八千人立て籠った城村城、さらに一万数千人が立て籠った田中城の攻防は、実に半年にわたって続きました。秀吉は「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばし、徹底的に弾圧しました。ついに田中城は落城し、和仁一族は討滅され、城村城は停戦開城。隈部一族は、翌年になって殺されました。

佐々成政は、秀吉から責任をとらされて切腹。秀吉は、加藤清正や福島正則らの武将を派遣し、反抗した国衆を処分し、検地、課税額の決定を強行。かくして肥後の中世を支配してきた国衆のほとんどは滅びました。

国衆一揆の翌年の天正十六年(一五八八)、肥後の親領主として北に加藤清正、南に小西行長が任命され、ここに肥後の中世は終焉を迎えました。そして、国衆たちの支配下にあったとはいえ、中世期のもつ自由を帯びていた民衆も、農耕にのみ専従させられる近世的社会へと移っていったのです。