ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.042 「 忠臣蔵と肥後 」

講師/郷土史家  幸 平和(ゆき ひらかず) 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「忠臣蔵と肥後」です。


日本人に最も愛されている時代劇といえば、何といっても「忠臣蔵」です。映画・テレビ・お芝居など、これほど多くの名優によって上演されたものは、他にありません。赤穂浪士は、熊本とのゆかりが深く、討ち入り後、大石内蔵助以下十七名は細川藩お預けとなり藩邸で切腹して果てました。山鹿市の日輪寺には、十七士の遺髪塔があります。


仇討ちをリアルに伝える「堀内伝右衛門覚え書」


赤穂浪士の史実を裏付ける古文書として、「堀内伝右衛門覚え書」があります。これは、赤穂浪士の接待役だった堀内伝右衛門が大石ら十七人を泉岳寺で受け取り、元禄十六年(一七〇三)二月四日の切腹までの間、義士からの聞き書きや義士からの書簡・詩歌を書き寄せた貴重なものです。

元禄十五年(一七〇二)、十二月十四日の夜、四十七士は、本所林町の堀部安兵衛、杉野十平次借家に集まり、翌十五日午前四時雪道を踏みしめて吉良邸に討ち入りました。お芝居では大石内蔵助が陣太鼓を打ち鳴らしますが、これは脚色されたもの。吉良邸には、上杉藩からの応援も含めて一五〇人ほどおりましたが、不意をつかれ、十六人の死者、二十数名の手負いを出しました。

目当ての上野介は炭小屋に隠れておりましたが、誰も顔を知らない。白小袖を着た老人を間十次郎が槍で突き、武林唯七が一刀に斬りつけ、首を取りました。合図の笛を吹いて表玄関に皆を集めて、表門の番人に上野介の首に間違いないことを確かめたと言います。

午前六時頃吉良邸を引き上げ、回向院の門を叩きましたが、回向院では門を開けず、永代橋から八丁掘を通って泉岳寺に向かいました。途中、内蔵助は、大目付仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)の邸に吉田忠左衛門と富森助右衛門をつかわして、仇討ちの始末を届け出ています。

赤穂義士の一行が、泉岳寺に着いたのは午前十時頃。境内で上野介の首を洗った井戸は、今も首洗いの井戸として残っています。


細川藩は赤穂浪士を手厚くもてなした


仇討ちの後、幕府は赤穂浪士を、細川家、松平家、毛利家、水野家の四家に預けます。細川家では藩主の綱利公が自ら引き取りに行きたいとのことでしたが、結局、旅家老の三宅藤兵衛が八七五人もの家来を連れて、大石内蔵助以下十七名を引き取りに行きます。一行を駕籠に乗せて、柴白金の細川藩邸に帰ると、綱利は早速、一同に対面しました。

藩邸では上の間、次の間に分けて起居し、その待遇は二汁五菜、酒、菓子まで出され、衣服、風呂まで行き届いたものでした。義士たちは浪人生活の間、粗食だったため、料理を減らしてくれるように頼んだという話も残っています。

毛利藩では駕籠に網をかぶせて護送した後、窓を閉めて長屋に押し込むなど、まるで罪人扱いでした。毛利藩では、細川藩での待遇を聞いて、処遇を改めました。

赤穂浪士について、幕府の評定所から、お預けのままで置き、後年に裁決すべきだとの意見が出されました。しかし、翌年、幕府から公儀を恐れざる行為として、切腹の沙汰がおります。荻生徂徠も「ちやほやされると、間違いを起こす者が現れる」と、切腹を支持します。

二月四日、それぞれの邸で切腹。細川家では、座敷で切腹させたかったものの、主君の浅野内匠頭が庭で切腹したため、庭先に畳を二枚敷いて切腹を執り行いました。

その夜、泉岳寺へ四家から遺体が送られ、午後十時に葬儀があり、明け方に墓所の土墳が築かれました。

綱利公は藩邸に関係者を集めて、「あの勇士どもが」と三度言われたとか。奉公所からは「義士のいた部屋は浄めるように」との御達しがありましたが、綱利公は「わが藩の守り神だから、そのままにしておけ」とのこと。綱利公の赤穂浪士への並々ならぬ思いが伝わってきます。

尚、赤穂浪士の遺子のうち十五才以上の男子十九人は遠島を申しつけられました。内蔵助の妻、理玖は、切腹の時、妊娠しており、後に男子を出産して大三郎と名付けました。大三郎は成人して浅野本家に内蔵助と同じく千五百石で召し抱えられます。


冥福を祈り、日輪寺で義士祭り



582年に創建された日輪寺
山鹿市の日輪寺には、赤穂浪士の遺髪塔があります。細川藩邸で義士の接待役をつとめた堀内伝右衛門が、義士の遺髪をもらい受け、日輪寺に葬り、ここに庵をむすんで義士の冥福を祈りました。伝右衛門の死後、寺に畑が寄進され、堀内組が作られ、畑からの収穫物で義士を供養してきたのです。

日輪寺では、終戦前まで行われていた義士祭りが昭和四十一年に復活され、今も二月四日しめやかに行われています。私も、子供の頃、義士祭りでそばを食べた思い出があります。

数年後、本堂横の泉水のそばに陣太鼓を持った大石内蔵助の像も建てられました。

日輪寺の境内に立つと、藩主綱利公をはじめ、義士を敬った多くの人々の思いが伝わってきます。