ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.041 「 後藤是山 」

講師/後藤是山記念館館長  堀江 満 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「後藤是山」です。


九州日日新聞(現熊日)出身の記者であり、俳誌「東火」を主宰した後藤是山。新聞人・文化人として活動する一方、「肥後国誌」や、神風連についてまとめた「肥後の勤王」を発刊するなど郷土史の分野でも多くの功績を残しています。今回は、後藤是山記念館館長の堀江満先生に是山の生涯について語っていただきました。


時流におもねず生涯一記者として


後藤是山は、九州日日新聞(現熊日)で活躍した新聞記者であり、県文化界の重鎮として、明治から大正、昭和まで一世紀を生きぬきました。

本名は祐太郎。号の是山は、「碧巖録」という仏典の「山は是れ依然として山。水は是れ依然として水」からとったもの。時流におもねず、頑固一徹を貫き通した人柄がしのばれます。

明治十九年、大分県の久住町で誕生。久住は江戸時代までは細川藩の領地でしたから、是山には熊本県人の意識があったようです。是山は旧制竹田中学を出て、早稲田大学を中退した後、明治四十二年九州日日新聞社に入社します。

当時は政党新聞の色濃き時代で、政治と経済、三面記事によってこうせいされていました。俳句などの文学を新聞にのせることは閑人か軟弱な人がすることであり、天下国家を論ずる男性がすべきことではないという風潮があり、是山は幻滅を覚えました。


徳富蘇峰の薫陶を受ける


翌年、是山は徳富蘇峰の「国民新聞」に記者修行に出され、上京。蘇峰や与謝野鉄幹・晶子夫妻など中央の文化人から大きな影響を受けます。蘇峰は是山の資質を見抜き、是山に文芸方面に進むように助言しました。

二年間の修行を終えて、九日新聞に複写した是山は高浜虚子を俳壇の選者に、与謝野夫妻を歌壇の選者に選び、橋本関雪、小室翠雲、堅山南風の絵を掲載し、鈴木三重吉・北原白秋を文芸欄に登場させ、紙面を充実させました。

島村抱月・松井須磨子夫妻の講演と公演、武者小路実篤の講演、朝倉文夫の彫塑展、横井小南の墓前祭を紙上紹介するなど、熊本に文化の新風を送り込みました。

しかし、是山の新しい試みに、新聞社の内外から批判が出てきます。昭和九年七月、是山が出社すると、社長から「おい、君は明日から出社せんでもいいぞ」と辞職勧告を受けました。これに対して、同僚が連判状を提出し、勧告の撤回と復社を要求する事件が起き、是山の支持者が多かったことも伺えます。


未開の郷土史を掘り起こす


現代は郷土史の掘り起こしがさかんですが、当時、郷土史は「未開の荒野」とされていました。是山は、神風連のことを克名に調べ、二十代の若さで「肥後の勤王」を書きあげ ました。賜天覧と刻印された本・御下賜金と浄書した古びた封筒があるところを見ると、大正天皇が読まれたものかもしれません。

「肥後国誌」は、郷土史を学ぶ人の必読書ですが、これは是山が三十一歳のときに書いたものです。このほか「肥後三鰥伝(さんかんでん)」や「大智禅師」など読み物を九日紙上に掲載して、読者に喝采を以て迎えられました。

是山が活躍できたのは、山田珠一社長の理解と支援があったからです。九州日日新聞社は国権党で、民政党の九州新聞社と競い合っていました。山田珠一社長は後に熊本市長も務めましたが、昭和九年に死去。その葬儀の参列者は延々と続いたそうです。山田珠一氏が亡くなると、九日新聞は再び政党色一色になり、是山はもう嫌気がさして社長の辞職勧告の翌日、新聞社を辞めてしまいます。

昭和二年から是山は俳誌「かはがらし」(後に「東火」と改名)を主宰、発刊し、独自の文化活動を行っていました。「自分は単なる歌人ではない。また、単なる俳人でも、単なる郷土史家でもない。ひたすら俗塵の中に生きつつ世を嘆く老記者、老書生でありたい。」と常々語り、市井にあって生涯一記者の生活を貫きました。昭和六十一年六月四日、九十九歳で死去。まさに大往生でした。


後藤是山記念館オープン


熊本市水前寺にある後藤是山邸は蘇峰によって「淡成居」と名付けられ、うっ蒼たる樹木に包まれています。その中には蘇峰から送られた銀杏の苗木が成長し、大木となり、長い年月の流れが感じられます。

是山邸は熊本市に寄贈され、後藤是山記念館として平成八年五月二十日にオープンしました。遺品のほかに一般図書や和とじの蔵書、古文書、手紙、色紙、短冊、写真、掛軸、是山が書いた原稿など膨大な資料があり、現在その分類、整理を行っています。

その中には「相知りて二十とせ近し云わねども是山と寛のたのしみの似る」と書き送った与謝野鉄幹をはじめ、堅山南風、中村汀女(斎藤破磨子)、徳富蘇峰・蘆花兄弟、安達謙蔵、朝倉文夫、若山牧水など多くの著名人からの手紙があり、是山の交友の広さが伺えます。

是山は師の蘇峰のことを「蘇峰先生は、大記事とか歴史家、事業家という呼び方でくくることのできない巨人であった」と評していますが、是山こそ巨人のごとき存在に思えてなりません。