県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。
今月のテーマは、「天草を救った鈴木重成公」です。
天草・島原の乱の後、天領となった天草初代代官に任じられた鈴木重成公は、荒廃した天草の復興に尽力。天草の人々を苦しめてきた重税を減らすため、石高半減を幕府に嘆願して、切腹して果てました。天草の人々はその遺徳を偲び、その霊は神社に祀られています。今回は、鈴木神社宮司の田口孝雄氏に、鈴木重成公について語っていただきました。その要旨をご紹介いたします。
天草・島原の乱はなぜ起きたか
一六世紀の天草は、南蛮文化が華開いた日本の先進地でした。コレジヨ(天草学林)が開設され、日本で最初のオルガンの音色が島々に響きました。グーテンベルクの印刷機が持ちこまれ、「平家物語」や「イソップ物語」が印刷されたのもこの頃です。
中世の天草を支配していたのは、天草五人衆(志岐、天草、上津浦、栖本、大矢野)でした。五人衆は肥後の南半分を支配していた小西行長の影響で、キリスト教の洗礼を受けていました。後に小西行長との反目から天正合戦で破れ、天草は唐津藩の寺沢家の支配下に移ります。寺沢家の圧制が天草の悲劇の始まりでした。
天草の実際の石高(米の生産高)は二万一千石ほどしかないのに、寺沢検地によって石高を四万二千石としてしまったのです。当時の税率は石高に応じて、四割から六割も課税されるため天草の農民は収穫のほとんどを徴収されるという状況になり、農民の困窮ぶりは大変なものでした。
こんな状況の中、天草・島原の乱が起こる訳ですが、その原因はキリシタン弾圧よりも苛酷な年貢搾取が大きいと言えるでしょう。天草・島原の乱では三万七千人が死亡し、このうち天草では人口が二万人から約八千人に激減したと推定されます。神社や寺は焼かれ、田畑は荒れ果て、焦土となった天草の島々。
この天草を復興し、二度と大乱の起きないようにするため、幕府から任命された初代代官が鈴木重成公です。
石高半減の建白書を残して、農民のために切腹
重成公は三河藩(愛知県)東加茂郡の足助城城主鈴木重次の三男として誕生。長兄の正三(しょうさん)公は後に出家して禅僧となったため、家督は重成公が継ぎました。重成公は上方代官を歴任した後、天草・島原の乱には鉄砲隊長として参戦。老中松平信綱の信任が篤く、乱後も天草の実態調査を命じられました。
天領となった天草の初代代官として重成公が天草に入られたのは、寛永一八年(一六四一)のこと。富岡城下に陣屋(役宅)を置いて、天草の民政に取り組まれました。軍事面は細川藩が担当し、富岡城にも細川藩の藩兵が詰めていました。
重成公は天草全島を十組八十八の村に区画し、組に大庄屋、村に庄屋を置いて行政の浸透をはかり、外国船の動静を探る遠見番なども設置し、行政機構を整えていかれました。
重成公の考えは、キリスト教に救いを求めて破れた人々の心のすさみを癒すために、兄の正三公の意見を入れて日本人の原点へ帰ろうということでした。そのため、幕府から三百石を持ってきて、各地に神社や寺を次々に建立していかれたのです。朝には、鎮守の森から太鼓の音が響き、夕べにはお寺の梵鐘が聞こえる。日本の原風景に戻るに従って、ようやく島の人々も落ち着きを取り戻します。
しかし、天草の公式の石高が四万二千石のままでは、重税の圧迫はどうしようもありません。重成公は詳細な検地を行い、天草の石高半減を強く老中の松平信綱に訴えられます。幕府にも威信がありますから、簡単に承諾する訳にはいかない。承応二年(一六五三)、重成公は真情を綴った建白書を残し、江戸の自邸において切腹して果てられたのです。日本で初めて、農民のために命を捨てる武士が現れたのです。
遺徳を偲び鈴木神社を建立
切腹した場合、お家断絶になるのが通例ですが、幕府では病死扱いにして子の重祐に家督を継がせ、養子の重辰(しげとき)(正三の実子)を二代目代官に任じるという異例の処置を取ります。天草の人々は代官に心服している。鈴木家でなければ、もはや天草は治まらないことを幕府は熟知していたのです。
重辰公は石高半減の訴えを繰り返し行い、ついに重成公の七回忌に松平信綱と阿部忠秋の連名で石高半減の通知が下されたのです。
天草の東向寺領の一角には重成公の遺髪が埋められ、遺髪塚が築かれました。鈴木塚はその後、天草三十余ヶ所に分祠され、今も「鈴木さま」として信仰されています。
根本となった遺髪塚(本渡市本町)には重成公祀る鈴木神社が建立され、後に兄正三公、養子重辰公も祀られました。重成公の切腹説には疑問を呈する向きもありますが、切腹という非業の死を遂げられたからこそ、島民はその魂を鎮め感謝法恩の念を表わすために神として祀ったにちがいありません。
中国には「最初に井戸を掘った人のことを思え」という名言があります。天草にしてみれば、その人が重成代官であり、現代の人々もその井戸の水の恩恵を受けているのです。
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