ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.038 「 御船町史ところどころ 」

講師/御船町郷土史家  丹生 静男 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「御船町史ところどころ」です。


上益城郡御船町は、古来より要害枢要の地として、南北朝の昔から幾たびも戦場となりました。特に明治西南の役では、薩摩軍の敗北を決定付ける大きな戦いが御船で行われました。今回は御船町の郷土史について御船町郷土史家で熊本県文化財保護指導委員の丹生静男先生にご講話いただきました。その要旨をご紹介致します。


御船で大砲が造られた        ――― 増永式層成砲 ―――


昭和17年頃の熊本市には、毎日正午になると熊本城からドーンという大砲の音が鳴り響いて、正午を知らせていました。その大砲を造ったのが御船の増永三左衛門です。時代は鎖国中の日本にペリー艦隊が軍艦4隻で浦賀に来た頃です。

江戸幕府は、全国の各藩に海岸防備と浦賀の警備を命じました。肥後藩も、佐賀関に砲台を据えて警備するよう命ぜられましたが、肥後藩には小さな大砲しかなく、ほとんど手ぶらで行くありさまでした。

しかし造り酒屋の商人・三左衛門は、大阪に出店を構えていたため、大砲の重要性を知っていました。本家「雑穀屋」に鍋などを作る鋳物工場があったので、御船に帰って大砲を造ろうとします。 当時、大砲を造るには西洋式の反射炉が必要とされていましたが、三左衛門は従来のたたら炉(脚で踏むふいご)の溶鉱炉で7ヶ月かかって3メートル弱の立派な大砲を造り上げました。三左衛門はこの第一号の大砲を肥後藩に献上し喜ばれています。

その後もさらに研究を重ね、層成砲という旧陸軍や自衛隊でも使われている優れた大砲を造り上げました。この大砲には松崎鋳物工場との大砲の試し撃ち競技が開かれたときのエピソードが残っています。金峰山の裏、松尾村にあった細川藩の大砲の試射場で行われた試し撃ちで、松崎鋳物工場びいきの侍が三左衛門の大砲に火薬を余計に詰めたそうです。しかし三左衛門の層成砲は目標を遥かに越えて飛び、見事成功し、肥後藩は三左衛門の大砲を2門買って佐賀関の砲台に据えました。

米英仏の外国船に火蓋を切ったその大砲は、明治になり老朽化して熊本城に引き取られ、午砲として市民に親しまれていました。昭和18年、大砲は軍需品として小倉工場に運ばれ、現在はありません。しかし、大きな日本の歴史の転換期において、私どもの郷土(御船)で、肥後使命が果たされ、そして、国防の急務に際して貢献したことは、大きな誇りです。


御船に県庁が置かれていた


明治10年の西南の役は、熊本を舞台に大分、宮崎、鹿児島へと拡がった、日本史上最後の内乱です。御船とも大きな関係があります。2月19日夕方、薩摩軍の攻撃にいよいよ熊本県庁は危うくなり、御船小学校(明治8年創立)に移されました。翌20日、後の熊本隊・佐々友房らが、県庁の守護のために市中治安の任に就き、金2,500円を与えられます。

しかし、佐々らは薩摩と連絡を取っており、県庁を奪い公金を手土産に西郷を迎えようとしていました。ぞくぞくと乗り込む士族たちのただならぬ様子に、ようやくだまされたことに気付いた県庁・裁判所職員たちは、大事な髭を剃って、商人や農民の服を着て逃げたそうです。こうして御船の県庁は2日で終わりました。


地で赤く染まった御船川


御船では4月12日と20日に肥薩軍の敗北を決定付けた大きな戦いがありました。大砲運搬の要害・田原坂をめぐる戦いに苦戦した政府軍は、戦局打開のために後ろから挟み撃ちにする作戦を考えます。12日、八代へ上陸した政府軍・別動隊と永山弥一郎指揮する肥後軍とが御船川を挟んで激戦を繰り広げました。弥一郎はもともと西郷の旗揚げには慎重だったのですが、ひとたび決意すると勇猛果敢に戦いました。彼は優れた人物で戦略家でしたが、大人数の官軍に衆寡敵せず、大敗を喫してしまいます。御船川沿いの農家を買って、自刃しました。

20日の戦いはさらに激しく、御船川は血で真っ赤に染まり、『明治十年鹿児島戦争日記』に、「台場ノ周囲ニ倒ルル者五十人、水ニ溺(おぼ)ルル者百人、水之ガ為流レズシテ漲(みなぎ)ル」と記録されています。この激しい肉弾戦の一方で、熊本隊は歌を作るなどの精神的ゆとりも持っていました。


「人トハバ 何トコタエン春雨ニ

    散リノコリタル 花ノココロヲ」

                (深野一三)


西南の役で、熊本は広い範囲が戦場となり、多くの家が焼かれ、壊され、田畑・財産を失い、働き手を軍に徴用され、多くの死傷者を出しました。国を思う信念に燃える若者達が、日本人同士戦った西南の役。しかしこの終結によって、明治維新の大業は初めて達成され、これを契機として、わが国は政治、経済、産業、言論の各分野において、近代化への道を歩み出すことになります。

御船には官軍墓地はありませんが郷土熊本隊の墓は四ケ所に残されています。彼らが死守した戦跡の山々も昔のままです。

この他史跡がたくさんの御船町に是非おいで下さい。