ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.037 「 宮崎兄弟のあれこれ 」

講師/宮崎兄弟資料館  小坂 和夫 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「宮崎兄弟のあれこれ」です。


日本の近代史にスケールの大きな足跡を残した宮崎兄弟。自由民権運動に奔走した八郎、土地復権運動に生涯を捧げた民蔵、中国に理想の国家を夢見た彌蔵、そして三兄の思想を受け継ぎ、孫文を助けた侠の革命家滔天。今回は「宮崎兄弟」について、荒尾市宮崎兄弟資料館の小坂和夫氏に語って頂きました。その要旨をご紹介いたします。


宮崎兄弟の根底にある「自由民権」の思想


宮崎兄弟の父・正賢は荒尾村随一の地主で、武人としての剛力さと慈悲深さを合わせ持った人物でした。「人間は皆平等」という幕末当時としてはかなり革新的な考え方をしており、息子達に大きな影響を与えたと考えられています。

長兄・八郎は大変優秀で、郷土の息子でありながら細川藩校時習館で学び、居寮生として東京での遊学を命ぜられます。東京での八郎は万国公法を勉強し、新聞記者として反政府活動なども行っていたようです。

明治十年、西郷隆盛が鹿児島で旗上げすると、八郎も協同隊を編成し西郷軍に加わりますが、八代で二十七才という若さで戦死しました。自由民権を目指す八郎の思想は征韓の即時実行を求めた西郷の考えとは異なります。しかし、「新政府を倒す」という段階までは反政府勢力最大の西郷の力を借り、その後で西郷と思想での議論を戦わせるつもりだったようです。

明治十三年に父正賢が亡くなり、家督を継いだのが一兄・民蔵です。凶作で小作人が困っているのを目のあたりにし、土地は人類共通の財産で人類平等に享有するべきとの観点から、土地復権の運動を行いました。しかし、彼の考えは時代とあわず、社会主義活動として制約を受けてしまいます。

その後民蔵は中国に渡り革命家孫文の活動を支援しましたが、昭和三年、上海で当時としては珍しい自動車事故に遭い、その事故がもとで六十四歳で亡くなります。

日本国内ではなく、アジアの大国・中国で革命をおこし、全アジアの自由民権革命へ拡げようと考えたのが、ニ兄・彌蔵です。革命的アジア主義というもので、中国に共和的国家を作ることを夢見ました。明治二十八年、横浜の中国商館に勤め、中国人になりきるため弁髪を結い、名も菅仲甫という中国名に改めました。しかし、体が弱く、夢半ばにして三十才で亡くなります。


アジアの共存を夢見た滔天


彌蔵の夢を引き継いだのが虎蔵(滔天)です。明治二十四年、二十才の滔天が米国留学計画をしているところへ彌蔵がかけつけ、中国革命の必要性を説き渡米を中止させました。彌蔵の理想に共鳴した滔天は、移民を連れてタイ国へ渡りそこで革命の基盤づくりをしようとしますが、失敗します。しかし、一番の同志彌蔵の死と、亡命中の孫文との対面により、以降中国革命に更に専念しました。ちなみに明治三十年のこの会見の後、孫文は荒尾の生家に十日間程滞在しています。

孫文は清朝を倒し、共和制をしくことを目指し、滔天も孫文を支援することがアジアの解放につながると考え、恵州での挙兵に参戦します。しかし、日本から輸送した武器が粗悪品だったため、あえなく失敗。更にそのことで仲間から疑われたことも原因して、明治三十五年、浪曲師桃中軒雲右衛門に入門しました。この突然の転身は、語りで同志を集めようということと軍資金を稼ぐ目的があったようです。同じ時期に滔天は浪花節語りになるまでの半生を描いた自伝「三十三年の夢」を出版し好評を博しました。そして思いがけず、この自伝が媒介となり中国の革命は加速され、明治四十四年の辛亥革命の成功へとつながっていったのです。その後も、孫文が「革命におこたらざるは宮崎兄弟なり」の言葉を残したように衆議院議員選挙に立候補したり、文筆活動を行うなど、生涯にわたり革命活動を続け、五十二才で亡くなりました。


宮崎家の女性たち・あれこれ


滔天の妻槌(ツチ)は前田案山子の三女でお嬢様育ちだったのですが、結婚後は大変苦労しました。「革命のための金はできるが妻子を養うための金はできない」という滔天に内緒で、孫文が槌に金を送ったこともあったようです。

彼女の姉卓(ツナ)は、夏目漱石の「草枕」の那美さんのモデルといわれている人です。二度の結婚に失敗した後「民報社」に住み込み、中国の革命家を助け活躍しました。

そしてこれは余談になりますが、滔天の息子龍介の妻は、当時世間を騒がせた「白蓮事件」の美人歌人柳原白蓮です。

滔天は、中国では国父孫文を助けた日本人として知られており、宮崎兄弟資料館にもよく中国の方が訪ねて来られます。しかし日本では、あまりに革新的だったことや、定職がなく土地財産をなくしていったため理解されず、戦後になってようやく見直されてきているという状況です。昭和三年に民蔵が亡くなると生家は人手に渡り、平成五年にようやく市が買い取り資料館として整備することができました。

今後も荒尾市のシンボルとして、行動力と義侠にあつい宮崎兄弟を知っていただくために活用していきたいと思います。