ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.034 「 熊本の宮本武蔵 」

講師/島田美術館館長  島田 真祐 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「熊本の宮本武蔵」です。


佐々木小次郎との対決など、小説やテレビの時代劇で宮本武蔵ほど人々に親しまれている剣豪はいないでしょう。武蔵は、肥後細川藩祖の忠利公に招かれて晩年を熊本で過ごしました。今回は、武蔵の研究者として知られる島田美術館館長の島田真祐先生に、熊本時代の武蔵について語って頂きました。その要旨をご紹介いたします。


剣の勝負で一度も破れなかった


宮本武蔵が亡くなってから、三百五十年という歳月が過ぎました。剣の凄さばかりでなく、その生きざまは、何百年過ぎても、多くの人々を魅了し続けています。

播州(兵庫県)で生まれ、一三才で新当流の有馬喜兵衛と勝負をして以来、生涯六十余度も勝負をしましたが、武蔵は一度も破れなかったといいます。厳流島で佐々木小次郎を破ったのは、二九才の時でした。

剣豪としての名声は、全国に広まり、幕府の大学頭の林羅山や、秀忠の子保科正之、京都の大徳寺の僧など、当代のトップクラスの人々との交流も伺われます。浪人と言っても長屋で傘張りをすることもなく、経済的に恵まれていたようです。

生涯妻をめとらず、細川藩に仕えるまでは、どこにも仕官しなかった武蔵。晩年になってからはなぜ肥後藩に仕えたのか謎でしたが、一昨年、それを解き明かす貴重な書状が八代の松井家で発見されました。

その書状とは、武蔵が肥後藩の家老・長岡佐渡守に宛てたもので、その内容は以下の通りです。「有馬の陣(島原の乱)では、一介の武家者に過ぎない私にお便りや贈り物を頂き、ありがたく思っております。その後、江戸や大阪に行っておりましたが、今は熊本に来ておりますので、お目にかかりたい。」

武蔵が島原の乱の際に、養子の伊織とともに小倉の小笠原家に従って有馬の陣にいたことは以前からの通説で、原城の城兵が投げた石が武蔵のすねにあたってケガをしたことも有馬書状によって裏づけられています。

兵法の世界では知名人とはいえ一介の浪人にすぎない武蔵が、知行三万石の大藩の家老と親交があったというのは、驚くべき事実です。その書状のすぐ後で武蔵は忠利から迎えられるわけですが、その陰には長岡佐渡守の推薦があったと思われます。


武蔵はすぐれた情報収集家・分析家だった


武蔵が肥後藩に仕官したのは、寛永一七年(一六四〇)八月のこと。現米三百石一七人扶持で、宮千葉城跡に居を与えられました。一般の専業の兵法家のサラリーが三〇石程度だったことを思うとこれはもう破格の待遇です。

武蔵は自分の兵法と言うものを、一対一の剣術に相当する「一身の兵法」と、戦場における軍のかけひきにあたる「大の兵法」とに分けて考えていたようです。剣術については生涯をかけてやり残したことはなかったが、戦術・戦闘の実践については何かを成したかった。そのことが肥後藩に仕官した理由の一つだと私は思います。

島原の乱に出かけたとはいえ、武蔵は合戦の場で指揮を執ったことはありませんでした。島原の乱が終わり、太平の世が訪れたとき、彼は国政を平時における戦術と考えました。戦場での戦いがなくなった今、名君の誉れが高い忠利を補佐して、自分の夢を熊本で実現したいと考えたと言えましょう。

武蔵は兵法家として諸国を回りながら、剣の腕を磨き、その土地の気候、地形、風土などを克明に調べました。武蔵は諸国の情報に詳しい、すぐれた情報収集家・分析家でもありました。

忠利と武蔵は、単なる主君と家来の間柄を越えて、何か深いもので結ばれていました。武蔵は兵法ばかりでなく、諸国の状況を話し、政治についても進言していたのではないでしょうか。


書画・茶・禅にも熟達


武蔵が忠節を尽くした主君の忠利は、武蔵が熊本に来た翌年に亡くなりました。武蔵は、鬱々として愉しまず、書を書いたり、座禅を組んだりして、哀しみを癒したといいます。 忠利の三回忌にあたる寛永二十年、武蔵は金峰山の霊巖洞に籠り、座禅を組み、有名な兵法「五輪の書」を書きました。これは、地、水、火、風、空の五編からなる、二天一流の集大成とも言うべき兵法書です。武蔵は敬愛した忠利のためにこの書を書いたのだと私は思っています。

武蔵は武術だけでなく、文人としても名高く、書画、茶、禅にも熟達していました。画では、人物画のほかに「芦雁図」や「枯木鳴鵙図」など鳥を描いた秀作が多く、画家の目だけでなく、兵法家の視線で野性の鳥が置かれている状態を的確に捉えています。島田美術館には、武蔵の晩年の自画像がありますが、目の鋭さは年老いても失われませんでした。

武蔵は、正保二年(一六四五)に亡くなりましたが、死後も細川公の参勤行列を見守りたいと言う遺言により、甲冑をつけ立ったまま、大津街道沿いの武蔵塚に葬られたと言われます。

武蔵の二天一流の心は今も尚、熊本の地に色濃く生き続けています。