ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.031 「 肥後の名国司2 」

講師/郷土史家  鈴木 喬 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今回のテーマは「肥後の名国司2」です。


前回は道君主名の業績や時代背景について学びました。今回は前回に引き続き、鈴木喬先生に「肥後の名国司第2弾」ということで、道君主名同様に肥後国に功績を残した国司やゆかりある人物についてエピソードを交えながらお話いただきました。その要旨をご紹介します。


西暦700年頃に国司制度が確立し、国司がきちんと任命されるのは、鎌倉時代の前までの約500年間です。その間肥後国では、国司をはじめ守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの地方官が約千人いたと思われます。私は約三○年かけて六国史(りっこくし)(国家が正式に編纂した歴史書)や貴族の日記を読み、二三〇人の肥後国の地方官を拾い出しました。そのほとんどが名前だけしか記されていません。業績や言伝えの残る人物は僅かです。その中の三人の国司を紹介します。


清廉な国司 紀夏井(おさむなつい)


紀夏井は生没年未詳。名族紀史の一門で善岑(よしみね)の三男です。紀は紀伊(現在の和歌山県)に勢力を持つ豪族ですが、中央政界に進出して活躍し、天武天皇の時期に朝臣(あそん)の姓を賜ります。しかし平安時代になると学問、芸術の分野での功績が目立ち、『土佐日記』の作者貫之(つらゆき)が有名です。夏井は身丈六尺余(一八〇cm以上)ありましたが、性格は非常に温和で、書道をはじめ諸芸に通じていました。国司としては賄賂を一切受け取らず、清貧で有能な人であったと伝えられています。

夏井は人柄や才能を認められ、文徳(もんとく)天皇に重用されます。しかし文徳天皇崩御後、清和天皇の時代になると地方官として讃岐(さぬき)国(現在の香川県)の国司に任命されました。

夏井の任期の満ちた時に農民達が大挙上京して留意を嘆願したため、さらに二年間在任し、去るにあたっては贈られた餞別も紙と筆のほかは受け取らなかったそうです。

夏井は讃岐国での業績を評価され、貞観(じょうかん) 七年(八六五)に肥後の国司となります。当時肥後国は、行政的に難しいところではありましたが、全国十三の大国(米の生産量が高く耕地の広い国)の一つでした。

夏井は肥後国でも善政を行い、人々の信望を得ます。しかし翌八年に起こった応天門(おうてんもん)の変で異母弟の罪に縁座し、土佐(現在の高知県)に流されることになります。夏井が都の使者に伴われ肥後国を去る時、農民たちは道を遮って嘆き悲しみました。また讃岐国を通過するとき、ここでもかつて善政を施していたので、農民達は家を空にして道に出迎え、数十里の間泣き声が続いたと記されています。

夏井は国司としての力量や人柄に優れていながら、政情の争いに身を埋まらせてしまいました。彼は土佐国でその生涯を終わったと伝えられています。


清少納言の父清原元輔(きよはらのもとすけ)も肥後の国司としてやってきた


肥後の国司として、また平安時代の歌人として名を馳せた人が清原元輔です。清原家は代々和歌を善くし、学問を指導する家柄でした。祖父深養父(ふかやぶ)は歌人、またその娘清少納言は皆様ご存知の『枕草子』の作者です。また清原家の子孫が肥後藩主細川幽斎(ゆうさい)であり、学問や和歌を学んでいます。

元輔は天暦年間(九四七~九五七)に大中臣(おおなかとみ)の能宣(よしのぶ)らとともに和歌所寄人(わかどころよりうど)となり、『万葉集』の読み方を記す訓点を施し、『後選和歌集』の選者を命じられました。当時の和歌の名人達は梨壺(なしつぼ)の五人と称され、元輔もその一人に数えられています。

元輔は寛和二年(九八六)に肥後の国司となり、妻の周防命婦(すおうみょうふ)を伴って赴任してきました。この時元輔は七十九歳。元輔の国司としての業績は記録にありませんが、その歌集『元輔集』の中に藤崎宮で子(ね)の日遊び(若い松の木を根ごと採ってきて植える行事)をしたときに詠んだ歌が残されています。

藤崎の軒の巌に生ふる松

        今幾千代の子の日過ごさむ

元輔と親交を重ねた人物に女流歌人の檜垣(ひがき)がおり、歌を詠み交わしています。檜垣についての記録は、そのまま史実を反映しておらず、歌語りの世界が色濃く映し出されています。また檜垣は架空の人物という説もありますが、熊本の蓮台寺に住み、岩戸観音を篤く信仰したと伝えられています。

元輔は永祚(えいそ)二年(九九〇)六月に八十三才で亡くなります。熊本市北岡神社の北側にある清原神社は、元輔を祭神としており都に帰れなかったその霊を慰めた跡と伝えられています。


強盗の親玉も恐れる国司藤原保昌(ふじわらのやすまさ)


昭和の初めまで藤原保昌が肥後の国司であったことは、伝承でしかありませんでしたが、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』と称される藤原道長の日記に「藤原保昌を肥後守にした」と記されてあります。

保昌は有名な武士で、強盗の親玉が恐れる程の人物でした。寛弘二年(一〇〇五)に肥後の国司が殺される事件があり、強剛な保昌が任命されたのです。

また熊本の各地に「ほうしょうという国司があちこち神社を修繕した」という言い伝えがあり、それは保昌(ほうしょう)のことのようです。保昌の妻が歌人の和泉式部です。

熊本市二本木は平安時代から鎌倉時代を通して、熊本の行政の中心地でした。二本木の近くに寺院や神社も造られ、それには京の都と同じ名前をもつものもみられます。花岡山には祇園宮が祀られ(現在の北岡神社)、そのすそには清水(きよみず)寺・春日(かすが)寺、万日(まんにち)山には長谷寺などがありました。都からくだってきた国司たちが、懐かしさを込めてつけたものです。