ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.030 「 肥後の名国司 」

講師/郷土史家  鈴木 喬 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「肥後の名国司」です。


今回は「ふるさと寺子屋塾」30回特別記念講座として、熊本の郷土史の泰斗でいらっしゃる鈴木喬先生に御講話いただきました。その要旨を御紹介します。肥後の歴代国司の中で、特に人々にもてはやされているのが道君首名(みちのきみのおぶとな)です。名前も御存じない方が多いと思いますが肥後国に偉大な業績を残し、平安時代貞観年間の紀夏井(きのなつい)とともに肥後国司の双璧といわれた人物です。御講話の要旨を御紹介します。


良二千石(りょうにせんせき)と呼ばれた国司 道君首名(みちのきみのおぶとな)


優秀な国司(地方官)のことを良二千石(りょうにせんせき)と言います。肥後の国司の中で、良二千石と呼ばれ、奈良時代に人々の信望を得た人物が道君首名です。

国家が正式に編纂した歴史書『続日本紀』の中に全国から僅かに四人だけ個人の業績が記されてあります。四人の内の三人が僧で、俗人でたったひとり記されているのが道君首名であり、そのことからも道君首名が如何に優れた国司だったかがわかります。

道君は加賀国(現在の石川県)に勢力を持つ豪族で、北陸道に沿った地域だったので道君(道という苗字・君という姓)と名乗ったのでしょう。天智天皇のお后が道君の一族から出ているということもあり、政府の役人に任用されます。道君は加賀国で農業生産をあげるために尽力します。加賀国の平地は扇状地が多く、水田として利用するには、多大な苦労があったようです。溜池を作り、農業の技術を整え、その地域を少しずつ豊かにしてきた知識は首名に受け継がれていきます。


「僧尼令(そうにりょう)」を作り各地方国司に周知させる


首名は中央官僚として刑部(おさかべ)親王、藤原不比等(ふひと)らとともに「大宝律令」の選定に当り、「僧尼令」(僧尼に関する規定)の制定に功労がありました。「僧尼令」を各地方国司に講義し、全国に知らしめるために努力します。


農業や果樹、野菜、家畜を勧(すす)めるための規則を定める


首名は和銅五年(七一二)遣新羅(しらぎ)大使となり、翌年帰国すると筑後守となって肥後守を兼任します。首名は祖先が取り組んだ農業政策にそって筑後国と肥後国で思う存分腕を揮ってみたいと考えました。首名は着任すると農民に産業を奨励し、農耕や果樹・野菜・家畜を勧めるために、詳しい規則を定め教えます。そのひとつに「畦畝(けいほ)に果菜を植えさせる」とあります。つまり、田んぼの畦(あぜ)を活用し果樹(桃・みかん)や野菜(春の七草のたぐい)を植えさせたということです。果菜は栄養のバランスを保つ上に是非必要なものです。また「鶏(けい)ろくを処置させる」とあります。鶏や豚の肉を干し肉にし保存することや、骨を釣り針などに加工して利用する方法を教えたのです。

首名は農民に対し、自分の教えを強制してでも実行させようとします。農民にとって農業のやり方を変えるということは命に関わる問題でした。天候が不順でない限り、前の年にやったことをそのままやっていけば、それだけの量は取れるわけで今までのやり方を変えたくないという思いがありました。

首名は規則に従わない者は処罰しました。初め農民達は恨んだり悪口を言ったりしました。ところが実際の収穫の時期になってみると、首名の指導に従った人達の収穫量は従わなかった人よりはるかにたくさんありました。首名の指導に従えば生産がふえくらしが豊かになると知ると、農民達は喜んで彼に従うようになります。


溜池を築いて田畑の灌漑(かんがい)を勧める


首名が農業を勧める時に一番困ったのは、日照りの時の水の問題です。首名は干ばつに備え、筑後国や肥後国の各地に溜池を造らせます。その恩恵によって後々まで干ばつの心配が少なくなりました。

それらの溜池の中で最も有名なのが、肥後の味生池(あじうのいけ)です。味生池は熊本市の万日山と独鈷山の北側(池上町・新村・谷尾崎町の間)の低湿地帯と推定されます。味生池は加藤清正入国(一五八七)後に埋め立てられ新田となってしまい、今日ではその姿を見ることはできません。


死後、神として祀られる


道君首名は、筑後国と肥後国の国司の五年の任期の終わる年(七一八)の四月に亡くなります。享年五六才。数々の功績から、農民の信望は高く、名国司として仰がれました。はるばる九州へ赴き、異郷の地で死んだ首名の魂をなぐさめることと、その業績をたたえるために農民達は神として祀りました。

また首名の没後一二〇年、首名の孫広持の時に道君よりももうひとつ天皇に近い地位を示す当道朝臣(とうどうあそん)という姓を朝廷より賜ります。

熊本市より北の方に多く祀られていたおぶとさんという小さなほこらや熊本市高橋東神社(通称天社さん)は首名を祀るものです。