ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.029 「 横井小楠2 」

講師/横井小楠記念館前館長  堀江 満 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「横井小楠2」です。


前回は横井小楠の政治・思想についてお話して頂きました。今回は酒と女性についてエピソードを交えながら、前回に引き続き横井小楠記念館前館長の堀江満先生にご講話いただきました。その要旨を紹介いたします。


「士道忘却事件(しどうぼうきゃくじけん)」の真相


明治維新の少し前、文久二年(一八六二)十二月、いわゆる「士道忘却事件」が起きました。これは肥後藩江戸留守居役吉田平之助と都築四郎の三人で酒宴中刺客に襲われ、二人の同志が殺された事件です。二人の同志を見捨てて自分だけが生きのびるというのは、「武士の道にあるまじき行為」だとして、小楠は藩庁より士席・知行召し上げの処分を受けます。

その後小楠はしばらく越前藩に滞在し、やがて肥後に帰り、沼山津(ぬやまず)の四時軒(しじけん)で蟄居することになります。

失意の中で生活していた小楠の元に、酒宴中に殺された吉田平之助の娘せつが訪れます。小楠が「自分の不覚で父上を死なせてしまい、さぞ恨んでいることでしょう」それに対し、娘せつは「いいえ、恨んではおりません。でも嘘でもいから天下のために命がほしかったと言って下さい」と哀願します。父親が犬死したと思われたくない娘の気持ちからであったようです。


小楠と酒


こういった事件があったにもかかわらず、小楠は酒に対して常に肯定的な立場をとっていました。

小楠はある時、細川藩家老の長岡監物(ながおかけんもつ)から酒のことで忠告を受けたことがあります。「酒はもう少し慎まなければいけませんよ。是非、そのようにして下さい」これに対して小楠は次のように言いました。「三杯までは頂きますが、それ以上は頂きませんのでご安心下さい」と。

のちのことですが、矢島楫子(やじまかじこ 小楠夫人の実妹)は、「姉婿の横井(小楠)さんは実に立派な人でしたが、酒を飲むことを害とも思わなかった人でした」と言っています。

また、時の政府の要人岩倉具視は越前藩主松平春岳(しゅんがく)に小楠の人物について尋ねたことがあります。それについて彼は「小楠は政治的、思想的にはすぐれた人物ですが、秘密をしゃべってしまうことと、酒での失敗が多い人です」と答えました。ところが、小楠自身は「自分が知り得た情報を漏らして悪い訳がない。できるだけ人に伝えるべきだ」と反論したそうです。

小楠が酒で失敗するのではないか、人様に迷惑をかけるのではと心配する母に小楠は詩を贈っています。その内容は「母は神明に祈り、兄は手紙に託して酒を飲むなと戒めてくれる。遠く離れておりますが、何も心配することはありません。三十二歳の春、私は詩を創り酒の上での心配はかけまいと肝に銘じています」。


小楠と女性


安政三年(一八五六)年、前妻ひさが病死したため、小楠四十八歳の時、矢島つせ子(二十六歳)と再婚しました。ところが小楠は、自家の機織りとして奉公していた寿加(じゅか 三十歳)を愛してしまい、同じ家で夫一人、妻二人の奇妙な生活が始まります。

夫人は「夫は天下人である。妻たる自分もできるだけ学問をして、夫の名を辱めることがないように」と励みます。

また愛人寿加は、病弱の夫人を助け忍耐強く、思ったことをやり通す意志の強い女性でした。小楠が亡くなると同時に、寿加はつせ子にそれまで以上に仕えたのです。彼女は、下女になり姆(うば)になって働き、六十年の生涯を横井家のために捧げ尽くしたのです。

このように、小楠の妻つせ子と愛人寿加、この二人の女性は幕末の封建時代から明治の近代化への社会変化の中で、一人の男性小楠への愛と献身は現代の私たちにも考えさせられることが多いようです。

ところで横井家とその妻矢嶋家と徳富家の三家に関わる女性には進歩的で傑出した人が多いようです。この三家の八人の女性が、日本の女性史の中で近代的先駆者達です。


小楠にまつわる女性たち


竹崎順子(夫人の姉)       女子教育の先駆者 六十三歳で女学校を設立

徳富久子(主人の姉)       禁酒運動家

横井つせ子(小楠夫人)       明治維新への大業参加の小楠を内から支えた

矢島楫子(夫人の妹)       禁酒廃娼を目的とした東京婦人矯風会を設立

徳富初子(婦人の姉の子)    婦人運動家・日本初の男女共学を受ける

徳富愛子(甥・徳富蘆花の妻)  蘆花全集を出版

横井玉子(甥・横井左平太の妻) 楫子を支え、女子美術大学を創設

海老名みや子(小楠の娘)    日本初の男女共学を受ける キリスト教連合会長として活躍


過去を知らずして未来はない


小楠が目標とする国創りの基本は、仁(人が人を愛し、慈しむ心)と大義(人間が当然もつべき正しい道理)をもち、常に世界的視野に立ち、豊かで平和的な国民生活を営むことにありました。このことは、小楠の六十年の生涯をかけた集大成ともいうべきものです。この小楠の仁と大義思想は、その後の国政に影響を与えました。小楠の思想は今日の民主主義に道を開き、これからもなお生き続けていくに違いありません。