ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.028 「 横井小楠1 」

講師/横井小楠記念館前館長  堀江 満 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「横井小楠1」です。


横井小楠は幕末の代表的な政治家であり、思想家です。肥後実学党を結成し、開国を唱えるなど、明治維新に大きな影響を与えました。小楠は、とかく難解な思想家というイメージがありますが、今回は、横井小楠記念館前館長の堀江満先生に多くの資料をもとにやさしく御講話いただきました。


一三才で「経国済民」の大志を抱く


勝海舟や坂本竜馬と親交を結び、日本の近代の夜明けともいうべき明治維新に尽力した人物が、横井小楠です。

横井小楠は、文化六年(一八〇九)に細川藩士横井時直の二男として熊本の内坪井(現在の中央女子高校の敷地内)に生まれました。

横井家の祖先は北条氏と言われています。小楠は雅号で通称平四郎、実名が時存(ときあり)です。南北朝時代に後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成は大楠公、子の正行は小楠公と呼ばれていますが、小楠の号はそこからとったと言われています。

小楠はスケールの大きい人物で、一三才の時に大志を抱きその実現に命を賭けて時代を生き抜きました。その大志とは、「経国済民」。多くの民を救うための政治を実現しようということです。当時、肥後藩には時習館という藩校があり、小楠もここで学びました。時習館で幅広い学問を身につけましたが、後には「文義の研究、言葉の解釈に傾く時習館の学問は、学問の本領とは言えない」と時習館の教えには批判的になりました。

小楠は三一才の時に、藩命を受けて江戸に留学。江戸では水戸学者の藤田東湖(とうこ)らと深く交わり、その影響を受けました。

その翌年、酒の上の過失で帰国を命じられ、兄の家で謹慎生活を送ります。天保一四年(一八四三)に長岡監物(ながおかけんもつ)や元田永孚(もとだえいふ)らとともに肥後実学党とよばれるグループをつくりました。

弘化四年(一八四七)に、小楠は相撲町に私塾小楠堂を開きます。その門下に徳富一敬(蘇峰・蘆花の父)や矢島源助などすぐれた人材が集まりました。

小楠は四五才で小川ひさと結婚。その後、家督を継いで、沼山津に移り住み、ここで私塾四時軒を開くのです。わずか三年で妻ひさが病死したため、矢島源助の娘つせ子と再婚。つせ子の姉妹には矢島楫子(かじこ)や竹崎順子がいます。楫子は、売春防止の反対運動を続け、女性解放を世界に向かってアピール。竹崎順子は熊本の女子教育の先駆者で、熊本女学校(現熊本フェイス女学院)の校長も務めました。


実学によって殖産興業を


小楠は、実際の自分の生活に用いられる学問が大切だと主張しました。私たちの生活に必要な火、水、木、金、土、穀物の六つを六府といい、これを正しい心で利用してゆけば、国民の生活は豊かになるという考えです。


これは『書経』の「地平らかにして天成る」の言葉のように政治がしっかりしていれば平和になるということです。

また『史記』には「内平らかにして外成る」という言葉があり、家庭の幸福も大切です。政治と家庭が治れば、平成の世が来るといったことを、古典を引用しながら小楠は弟子に説きました。

幕末には、どの藩も経済的に困窮しており、倹約令がよく出されましたが、小楠は殖産興業の必要性を説きました。産業を興して、物の売り買いを盛んにすることが、国と民を富ませる秘訣だというのです。


攘夷論者から開国派へ


小楠は開国派として有名ですが、最初は熱心な攘夷論者でした。その考えが変わったのは、嘉永六年(一八五三)のペリーの来航によってです。軍監四隻で浦賀にやって来たペリーに小楠は怒り、ああいう無道の国とつき合うべきではないが、有道の国とはつき合うべきだと主張しました。

その後、アジア、アフリカがヨーロッパの列強によって植民地化されていった状況を知るにおよび、開国は天地公共の道と提唱するようになったのです。

世間の人々は、小楠の主張が度々変わるので、「節操のない変説者」と誹謗するようになりました。それに対して、小楠は昨日の非を認めることが学問であり、日々考えを改めていかなければ、進歩はないと反論します。

また、武士だけの意見を聞く時代ではなく、幕府は自ら私心を捨て、朝廷の意見や国民の意見を聞くべきだとも主張しました。広く国民の意見を聞くこと、つまり公議ということは明治の『五ヶ条御誓文』の中にあります。これを起草したのは由利公正ですが、これは小楠の思想の影響を受けたものです。


明治維新に生きる小楠の思想


小楠は、肥後藩では重く用いられませんでしたが、越前藩主の松平春嶽(しゅんがく)に認められ、安政五年(一八五八)から四回、福井藩に赴き、由利公正とともに殖産興業の事業を成功させました。他の藩が経済的に困窮している時に、福井藩内では三百万両という金が動き、藩では常に五十万両をプールしていました。

明治元年(一八六八)に小楠は新政府の招きで上京し、参与(総理大臣クラスの高い身分)を命ぜられ、政治の表舞台に登場。これからという矢先の、明治二年一月五日、小楠は京都で尊皇攘夷派の刺客に襲われ亡くなりました。享年六十才。小楠は、生前、自分が殺されても仇は打つなと言っていたため、弟子も甥も仇討ちは出来ませんでした。

小楠が晩年沼山津に開いた私塾・四時軒は現在も保存され、その隣には横井小楠記念館も建てられています。ここには小楠が刺客に襲われたときに防戦した短刀と血染めの羽織をはじめ、貴重な資料が多数展示されています。