ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.027 「 夏目漱石 」

講師/夏目漱石内坪井旧居館長  木村 隆之 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「夏目漱石」です。


『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』で知られる文豪、夏目漱石は五高の英語教師として熊本に赴任し、四年余りを過ごしました。熊本を「森の都」と名づけ、寺田寅彦をはじめとする後進を育て、千句近い俳句とさまざまなエピソードを残しています。今回は、夏目漱石内坪井旧居館長の木村隆之先生に漱石の熊本時代について御講話いただきました。その要旨を御紹介します。


漱石の第一声は「熊本は森の都だなぁ」


夏目漱石が松山を後にして、熊本の池田駅(現上熊本駅)に降り立ったのは、明治二九年四月十三日のこと。漱石の手紙と当時の時刻表によれば、午後二時過ぎに到着したようです。宇品から門司に向かう船中、知り合った俳人、水落露石と武富瓦全と久留米まで出迎えた親友の菅虎雄の四人で駅に降り立ちました。

駅から人力車で京町の坂を上り、新坂を下る時に熊本の樹木の多さに感嘆し、「熊本は森の都だなぁ」と言ったと伝えられています。

漱石を第五高等学校の英語教師として紹介したのは、五高教授の菅虎雄でした。月給は百円。当時、小学校長が十~十五円、巡査が十六円の時代でしたから、破格の待遇。現在の二百万円程です。

熊本に来ても、すぐに借家は見つからず、菅虎雄の家(薬園町)へ滞在。約一ヶ月近くも世話になりましたが、菅の末妹のジュンの勝ち気な性格に手を焼き、「おジュンさんは苦手だ」ともらしたといいます。


漱石先生は九五九句も俳句を残した


漱石は、在熊四年三ヶ月の間に何と六回も引っ越しをくり返しました。転居の先々で日記を書くように俳句をひねり、熊本で九五九句も残しています。


衣更へて京より嫁を貰ひけり


漱石の最初の住まいは、光琳寺(下通り)の家。この家で、東京から鏡子夫人を迎え、結婚式を挙げました。暑い日で、新婦の父がありったけの障子をはずしたが、まだ暑いといって上着を脱いで新郎の浴衣を着てくつろぐありさま。東京から来た年とった女中さんや、このほかに婆やさんや車夫が台所で働いたり客になったりして、総勢六名の簡素な結婚式で、総費用は七円五十銭。今のお金で十五万円ほどでした。

この家はすぐ前が墓場、その上昔お妾さんが不義をはたらいてお手打ちになったという不気味な家で、夫人がいやがり、これが転居の理由でした。


名月や十三円の家に住む


第二の家は合羽町(坪井)の家で、十三円という当時としては、高い家賃でした。現在この家は壊され、駐車場になっております。この家で漱石は「教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり」という手紙を正岡子規宛に送っています。


菫程の小さき人に生まれたし


この頃の心境を詠んだ俳句です。

第三の家は、大江の家。この家から小天温泉への旅に出かけ、これを題材にして後半『草枕』が生まれました。

第四の井川淵の家では、夫人が白川に身を投げて自殺未遂事件を起こし、住んだ期間は短かった。

そして、五番目の内坪井の家へ。熊本の家の中で最も立派な家で、鏡子夫人も気に入っていたようです。寺田寅彦が物置でもいいから置いてほしいと頼んだ馬丁小屋があり、長女の筆子さんは、この家で誕生しました。


安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり


漱石も喜んで句にしました。

現在、この家は漱石旧居として熊本市が保存、漱石の熊本時代の写真や書籍、原稿などが公開され、毎年一万人以上の人々が訪れています。

最後の家となったのは、北千反畑の家。藤崎宮の参道北側、吉田司家の角屋敷から北三軒目。この家に三ヶ月余住んだ後、漱石は文部省から英国留学の辞令を受け、七月二十日熊本を去りました。


『草枕』と『二百十日』のこぼれ話


名作『草枕』は、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。」という文句で有名ですが、五高の同僚の山川信次郎と一緒に出かけた小天温泉の旅から生まれたものです。

明治三十年の暮れから正月にかけて、漱石と山川は小天に前田案山子を訪ね、その別荘に宿泊しました。案山子の次女卓子は二度目の結婚に失敗して実家に帰っており、漱石と山川の接待にあたりました。この卓子が『草枕』の那美さんのモデルで、小説にあるように青磁の鉢に羊羹を入れて持ってきたのも事実です。漱石たちが帰る前日、卓子さんが土産にと玄関前の渋柿の木に登っていたら、散歩から帰った二人に見つかり、猿の親類みたいだと笑われてしまったそうです。

有名な入浴の場面は、卓子が女湯がぬるかったので熱い方の男湯に誰も入っていないと思って入ろうとしたら、漱石と山川が入っていて、くすくす笑う声が聞こえたので、びっくりして飛び出したというのが真相のようです。


温泉や水滑らかに去年の垢


『二百十日』を生むきっかけになった阿蘇の旅も、明治三十二年の九月の初め、山川信次郎と一緒に出かけたものです。戸下温泉に泊まり、内牧に出て養神亭(現・山王閣)の二階に一泊。翌日、阿蘇神社に詣で、現在の仙酔峡道路を通り、高岳に登る途中、嵐に合い難渋します。


行けど萩行けど薄の原廣し


小説では、漱石と山川を圭さん・碌さんという二人の人物に託して、テンポの早い会話の中で、当時の世相を皮肉っている。宿で二人が、ビールを注文すると、「ビールは御座りまっせんばってん、恵比須なら御座ります」という宿の女のことばが返ってきたり、酒の肴に半熟卵を注文すると、生卵二個とゆで卵二個が運ばれてくるなど、ユーモアたっぷりに描かれています。

漱石の熊本での体験は、後に『三四郎』や『道草』にも影響を与えており、漱石は熊本に多くの足跡を残してくれました。

来年は、漱石来熊百周年にあたります。