ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.026 「 出水神社の歴史 」

講師/出水神社宮司  松井 葵之 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「出水神社の歴史」です。


熊本にある庭園の中で、水前寺公園ほど観光客に親しまれている公園はないでしょう。東海道五十三次を模したといわれる築山と鯉の泳ぐ泉水は、静けさに包まれています。この公園の一角にあるのが、出水神社です。今回は、出水神社の歴史について、宮司の松井 葵之先生に御講話いただきました。その要旨を御紹介します。


細川藩主を祀る出水神社


出水神社を語るとき、細川氏を抜きにして語れません。

出水神社は、明治一一年、細川藩の御家来衆が細川家から受けた御恩に報いるため、 水前寺公園内に建てた神社です。創建当時は藩祖細川幽斎、二代忠興、三代忠利、八代重賢が祀られていましたが、後にそのほかの歴代藩主とガラシャ夫人も合祀されました。

藩候をまつる神社は福岡の黒田藩の光雲(てるも)神社や、佐賀藩の佐嘉・松原神社、柳川藩の三柱神社、薩摩藩の照国神社など各地に残っています。

出水神社を建てた御家来衆の団体は、甘棠会と呼ばれており、松井家の一一代もこの会に入っておりました。松井家は、御存じのように細川藩の筆頭家老で、八代城主。松井家の歴代当主を祀る松井神社の宮司が出水神社の宮司を務めることになり、現在に至ります。


細川家のルーツは清和源氏


細川家の祖先は清和源氏の流れをひいており、足利家初代の足利義康から四代目の義季の時に、現在の愛知県の額田郡細川邑に住んだことから細川を名乗るようになりました。

義孝から五代目の頼有は四国を治め、備後の守護職も務めましたが、この頼有が肥後細川家の始祖といわれています。

その八代後にこの家系を引き継いだ細川幽斎は殊に和歌や連歌に優れた当代きっての文化人でした。幽斎は子の忠興とともに丹後の領主で、関ヶ原の戦いの後には、忠興は豊前小倉城主になりました。

細川家は、足利、織田、豊臣、徳川の各君主に仕えてきました。よく「細川家が長く続いた理由は何ですか」と訊かれますが、いつの時代も幕府に対して身を粉にして働き、忠誠をつくしてきたからだと言えるでしょう。家老の松井家も細川家をお支えするという立場にありました。

 奉公はただ主従の義心のみ

      望かなへむ為にてはなし

                    (幽斎公御教歌)

幽斎公から代々伝えられた細川家の家訓は、記録を残すということでした。事実、細川家には、たくさんの古文書が残されています。記録を詳細に残すことによって、将来を予見し、いつも時代の一歩先を考えていたものと思われます。


水前寺公園の造営へ


加藤家改易の後を受けて、小倉から肥後に入国したのが、忠利です。以後、細川家は、肥後六花や茶道の肥後古流、和歌の古今伝授など、熊本に独自の文化を開花させました。

出水神社のある水前寺公園は、寛永一三年(一六三六)忠利の時に「国分の御茶屋」として設けられたのが始まりで、当時は露地と草庵風の茶室だけでした。水前寺は、御茶屋と同時に建立された寺のことで、豊前の羅漢寺の僧、玄宅を迎えて開山しました。

寛文五年(一六六五)頃、水前寺は無住となって、寺地は藩に引き上げられ、寛文一〇年に五代綱利により、肥後藩の御茶屋として大規模な造営が行われました。作庭は、藩の茶道役の萱野甚斎と古市宗庵を中心に進められ、藩主の好みも付け加えられました。

その翌年、現在とほぼ同じ規模の庭園が完成し、陶淵明の詩にちなんで、成趣園と命名。池辺の御茶屋の酔月亭も完成し、綱利は、ここで水前寺十景を楽しんだといいます。

酔月亭の跡には、大正元年に古今伝授の間が移築されました。この建物は京都の桂宮家から長岡天満宮(京都)を経て、さらに熊本に移されたものです。大阪の旧細川藩の米問屋が建物を解体して運送に当ったと聞いております。


奥深い文化を今に伝える


細川文化の粋を今に伝えるものとして、永青文庫があります。永青の名は、十八代の細川護立がつけたもので、始祖の頼有ゆかりの寺、永源庵から「永」を、幽斎公ゆかりの青竜寺城から「青」の文字をとったものです。ちなみに永源庵は京都の建仁寺の搭頭。青竜寺は細川家の最初の居城で後に勝竜寺と呼ばれるようになったとか。

護立は美術への造詣が深く、永青文庫には、細川家伝来の美術品や古文書のほか、護立自身の美術品のコレクションが収蔵されています。

護立は、画家や彫刻家のバックアップをしたことでも有名です。横山大観や堅山南風といった大家の創作活動を援助してきました。

十七代の護貞も学者肌の文人で、漢文の素養があり、美術への鋭い鑑識眼をお持ちでした。

出水神社では毎年8月第一土曜日に薪能が行われており、薪の炎の中に幽玄の世界が再現されます。薪能は、約千年前、奈良興福寺修二会の薪を奉じる儀式に奉納された申楽能に始まるもので、能も細川家によって守り育てられてきました。出水神社の能楽堂は、八代の松井家から移築された由緒のあるものです。

このように、細川家は熊本に奥深い文化を残しています。