ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.025 「 長陽の歴史 」

講師/長陽村教育長  野田 誠 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「長陽の歴史」です。


恵まれた自然環境、由緒深い歴史と伝説、岩戸神楽、そしてあふれる温泉など、長陽村には魅力がいっぱいです。今回は、野田誠先生に長陽村の奥深い魅力について語っていただきました。その要旨を御紹介します。


阿蘇を拓いたタケイワタツノミコト


長陽村は、明治一二年に長野村、河陽村、下野村の三村が合併してできた村である。歴史があり、史跡も多く、自然環境に恵まれている。

長陽村の歴史で、最初に語らなければならないのは、タケイワタツノミコトの伝説であろう。

阿蘇開拓の祖タケイワタツノミコトは、神武天皇の孫にあたられる。天孫降臨の地、日向から延岡に寄り、五ヶ瀬川のほとりを通って、馬見原へ来られた。さらに、草部というところで、ロマンスが生まれる。吉見神社の娘、アソツヒメと結婚なさったのである。

外輪山に囲まれて、当時湖水であった阿蘇をなんとか米の作れる平野にしようと、外輪山の一部を力いっぱい蹴破ったところ、湖水の水は流れ出した。力余ったミコトが尻もちをついてしまい、「もう立てぬ」と言ったことから、立てぬ→立野の地名が生まれたという。

事実、立野の火口瀬は周囲一三〇余キロの阿蘇外輪山の唯一の切れ目で、白川が流れ、国道と肥後本線が走っている。

アソツヒメのお産にあたっては、ヒメを隠すための屏風にとミコトが一晩で築き上げたのが夜峰山である。このほかにも、ミコトにまつわる伝説は多く、昔から阿蘇の古老たちは、いろり辺で語り継いできた。


幻想的な神楽と壮大な巻狩りと


この夜峰山のふもと、長野阿蘇神社で春秋に奉納されるのが、長野岩戸神楽である。

これは、江戸時代の寛文年間、長野九郎左衛門が諸国を巡歴し、古来より伝わる神楽に各地の舞楽を参考にし、古事記にもとづいて、神話の世界を再現したもの。スサノオノミコトがヤマタノオロチの尻尾を切ったら刀が出てきたり、天の岩戸に隠れたアマテラスオオミカミを呼び出すために、アメノウズメノミコトが笛や太鼓のリズムに乗って踊るシーンなどなかなか見ごたえがある。

圧巻は、天王注連(てんのうしめ)という竹登り。立てられた竹のてっぺんまで登りつめ、アクロバットが演じられる。第一座の「神下ろし」から三十三座の「大神」まで踊り続けると、一昼夜かかるという長編ドラマ。平成4年2月には、県立劇場で全二十三座が夜通し上演された。

長陽村は、巻狩りの舞台となったことでも有名だ。タケイワタツノミコトを祭る阿蘇神社の末社は、県下に四百以上あり、大宮司の阿蘇氏の勢力の大きさが分かる。巻狩りは、阿蘇氏によって二月の最初の卯の日に下野を中心とした地域で行われたため、下野の巻狩りと呼ばれる。

狩りが行われる前の日、大宮司の使者が卯添神社と西野宮下田神社に派遣され、勢子を集めるように頼み、同時に狩りの成功と無事を祈った。多いときには三千五百人の勢子が動員された。巻狩りは、農作物を荒らすウサギやシカ、イノシシを退治し、勢子たちの武勇を高めるために役立った。巻狩りといえば、源頼朝が建久四年(一一九三)に富士の裾野で行った富士の巻狩りが有名だ。頼朝は、家来の梶原景時を阿蘇に派遣して、下野の巻狩りを習わせたという。富士の巻狩りのモデルは、下野の巻狩りであった。

阿蘇神社には、巻狩りの絵巻物が残り、当時の盛大な巻狩りの様子を今に伝えている。西野宮下田神社には、「下野の御狩記録」と「下野御狩場古図」など、当時の模様を克明に伝える貴重な資料がある。


すでに奈良時代から温泉があった


長陽村には、栃木、垂玉、地獄、湯の谷など由緒ある温泉が多い。すでに、奈良時代か ら温泉があったという記録があり、この温泉も阿蘇氏が支配していた。当時は、現在のようにボーリングの技術などなかったので、岩から漏れてくるものを溜めて、温泉としたものだったらしい。昔は、温泉に入るには、神官、僧、武士、一般というように身分によって順番があった。

湯の谷には慈運寺、垂玉には垂玉寺、栃木には修験道場があり、温泉地は聖地というか、宗教的な場所だった。貴重な温泉は、天からの賜物だということで、寺が建てられたのかもしれない。

明治以降は、栃木温泉に漱石、垂玉温泉に五足の靴の一行や牧水も訪れている。最近は、村営の温泉センターのウィナスや駅の中の温泉として有名になった阿蘇下田城ふれあい温泉駅などユニークな温泉が話題を呼んでいる。

このほかにも村内には名所が多く、数鹿流ヶ滝のほとりには、落合直文の長編叙情詩で有名な孝女白菊の文学碑も建っている。あまり知られていないが、長陽村は西南の役の戦闘も行われた。戦場の跡は、西南の役公園として整備され、戦死した佐川官兵衛もここで眠っている。

長陽中学校のある陽の丘遺跡からは、たて穴式住居跡やたくさんの土器などが出土し、これらの遺物は、民具などと一緒に長陽村歴史民俗資料館に保存展示されている。

このように長陽村は多面的な魅力に満ちている。