ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.024 「 熊本の地名あれこれ2 」

講師/元熊本県伝統工芸館館長  熊本地名研究会事務局長  高濱 幸敏 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「熊本の地名あれこれ2」です。


加藤清正が築いた城下町熊本には、由緒ある地名がたくさん残されています。今回は城下町の地名をたどりながら、城下町の成立や当時の人々の暮らしについて高濱先生に御講話いただきました。その要旨を御紹介します。


地名は大切な文化遺産


城下町の歴史を考えるとき、熊本城や水前寺公園などのような史跡、建造物などと同様に、地名もまた、町の成立の機能とそこに住んだ人々の生活を伝える大切な文化遺産である。

15世紀、鹿子木寂心の築城(古城)の頃に、熊本の城下町の原形はできたと思われるが、記録には残っていない。その後、植木市を始めた城親賢、佐々成政と肥後藩主は代わったが、本格的な城下町を建設したのは、天正16年(1588)に肥後に入国した加藤清正である。

加藤清正は、古城を中心とした城下町の整備や河川の改修を行った後、7年の歳月をかけて慶長12年(1607)に熊本城を完成している。肥後藩は後に細川氏に引き継がれてゆくが、この頃に、城下町固有の地名ができたと思われる。


城下町の大半は武家屋敷だった


藩政時代の絵地図を見ると、約7~8割が武家屋敷、あと寺社の土地もあり、町民の住まいは1割弱といったところ。これは城のまわりに武士を住まわせ、その後、武士の生活のために町民を集めてきたからだと思われる。

侍町だった手取(てとり)地区を見てみよう。

手取地区は、現在の城東町、上通り、水道町、草葉町を含む地区である。手取は、加藤清正が開いた武家地。藩政時代には、大きな武家屋敷が並び、現在の水道町角から上通町南端までを手取といい、廐橋までを通町といっていた。

この地区には、歩小路(かちしょうじ)というめずらしい地名も残っている。かつて藩の歩御小姓組屋敷があったことから、この名がついた。現在の南坪井町に残る通りの名前である。

ホテルオークスのあたりは、オークス通りと呼ばれているが、ここは藪ノ内(やぶのうち)という地名だった。藩政時代には、武家屋敷があった。地名の由来は、向蓮寺という大きな寺の境内に大藪があったことにちなむという。明治10年の西南戦争で焼けてしまうが、その後、第一高女が建てられた。

京町地区にも由緒ある地名が多い。京町は、加藤清正の熊本城築城の際に、古京町にあった市や店をこの地に移して、京町と称したのが始まり。豊前街道に面した表通りは町屋、裏通りには武家屋敷があった。

宇土小路(うとしょうじ)は、現在の京陵中学のあたりだが、ここは関ヶ原の戦いで宇土城を攻め落とした加藤清正が、小西行長の遺臣をひきとって住ませた所という。


商人のさんざめきが聞こえる


町人町の代表格は、古町地区と新町地区である。新町は加藤清正が新しくつくった町であり、古町はそれ以前からあった町である。二つの地区には、細工町、桶屋町、魚屋町など同じ地名がいくつかある。

細工町は、櫛屋、数珠屋など細工物師が住んでいた町筋である。古町の細工町から一駄橋に通じる通りは、羅漢小路(らかんしょうじ)といい、昔は阿弥陀寺の外側に石の羅漢が数十体あったという。新町の細工町は、肥後の毒消しで有名な吉田松花堂のあるあたりである。

桶屋町は、樽、つるべ、たらいなど桶つくりの住んでいた町。

魚屋町は、古町、新町、本坪井、新坪井にもあり、坪井川を溯ってくる高瀬船が海の魚を運んできたところである。

このように、城下町の地名をたどると、藩政時代の武士や町民の暮らしぶりがよく分かる。地名には、私たちが受け継いできた歴史や風土が込められている。地名は、歴史の生き証人であり、これを次代に伝えてゆくことは私たちの義務であろう。


伝統的地名の保存を


地名が失われてゆく原因にはいろいろ挙げられるが、昭和37年から実施された住居表示法もその一つでる。熊本市でも、町名が○○1丁目、○○2丁目というように単なる記号に替わり、永く市民に親しまれていた町名は人為的に分断されてしまった。町村合併の際にも、多くの町村名も失われてしまった。

地名の消失の原因はほかにもある。商店街繁栄という名目によってつけられる銀座通り、シャワー通り、オークス通りなど。あるいは団地開発業者によってつけられる「ひばりが丘」のような耳障りのよい呼称の氾濫もある。

こうした状況のなか、町の品格を高めるためにも、伝統的地名の復権を考えてみる必要がある。

熊本市内の建造物、史跡、地名などの表示の現状は市観光課が中心となって、界隈案内板、保存型説明板、顕影標柱を設置している。

公共の表示板に伝統的な地名を刻み、保存してゆくことは、都市をデザインする上でも重要なことだろう。











 い そ 町 桶
 ざ の が な
 と 北 あ ど
 い 側 る の
 う に の 木
 と は で 製
 き 勢 新 品
 の 屯 町 を
 軍 ・ の 製
 勢 せ 桶 造
 の い 屋 す
 集 だ 町 る
 合 ま と な
 所 り い ど
 に と う 職
 な 呼 意 人
 っ ば 味 町
 て れ で で
 い る 新 あ
 た 広 桶 る
   場 屋  
   が 町 古
   あ と 町
   り も に
     呼 も
     ば 桶
     れ 屋
     た  

        




















 白
 御
 影
 石

 お
 け
 や
 ま
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 い そ 町 桶
 ざ の が な
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 百
  
 文
  
 字
  
 以
  
 内
  
 の
  
 説
  
 明
  
 文
熊本地名研究所が
提言している顕影標柱




地名を残すことについては、熊本地名研究会が城下町地名を100選び、地名の由来を刻んだ石碑を建てて、地名を保存することを平成3年に熊本市長および熊本市議会に提言した。