県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。
今月のテーマは、「ガラシャ夫人と戦国女性の人生観」です。
日本の歴史に登場する女性の中で、ガラシャ夫人ほど悲劇に満ちた女性はいないでしょう。明智光秀の娘で、細川忠興の妻になり、運命にもてあそばれたガラシャ。戦国時代を生きた女性の人生観はどんなものであったか、時代背景とエピソードを交えながら、徳永先生に御講話いただきました。
時代によって違う女性の人生観
江戸時代の女性のバイブルともいわれる『女大学』には「夫の家に行きては、専ら舅姑をわが親よりも重んじて、厚く愛い孝行を尽くすべし」とあって、女性は実家よりも婚家を大切にするようになっていた。しかるに戦国時代にあっては、女性は婚家よりも実家のために働くのを使命としていた。お市の方は実家の兄織田信長のために密書を送り、伊達の義姫は実家の兄最上義光の画策とあれば、わが子政宗さえも毒殺しようとした。
つまり、他家から輿入れした嫁という立場は、実家からいえばスパイを送り込んでいるようなものだし、婚家としては人質をとっているようなものであった。であればこそ、実家と婚家の間でいざ戦いが起これば、妻や子は妻の実家に返す定めになっていたのである。
こうしたいざという時に帰るべき実家を失った細川ガラシャが、やがて神の国、天国をおのれが帰るところと心に決めた過程は、戦国時代ゆえに切実であったと考えられる。
ラテン語を読み、オルガンを弾いた
ガラシャこと本命玉子は、永禄6年(1563)明智光秀の三女として誕生。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの手紙には、玉子の容色が花のように麗質であったと記されている。玉子は才気煥発で、知的な女性であったらしく、やがてキリスト教に入信するわけだが、当時は日本に和訳の聖書がなく、聖書が読みたいために、玉子はラテン語を独学で読み書きできるようになった。400年前の昔、玉子はオルガンを弾き、カステラを焼いていた。やまとなでしこの心情を母から受け、西洋的教養を父から受けたのであろう。いまに残る戦国女性の中で、玉子は最高に知的である。
玉子は、織田信長の媒酌で細川忠興に輿入れする。その後、天正10年(1582)の本能寺の変で父光秀が信長に謀反を起こすが、これが玉子の悲劇の始まりだった。光秀は忠興に援軍を頼むが、忠興は中立を装い秀吉方についてしまう。
夫の忠興によって、玉子は丹後半島の味土野に幽閉される。光秀が戦死し、母も自決し、玉子の姉妹の夫たちも殉死してゆく中で、たった一人残されてしまった玉子。幽閉中にこんな歌を詠んでいる。「さだめなき心と人を見しかどもつらさはつひに変わらざりけり」
玉子が理性の知恵に富む女性であればこそ、戦国時代の女性の生き方に疑問を持ったのは当然だった。夫を信じ、夫の価値観に殉じたとはいえ落城とともに自決した母。人質として丹波八上城(兵庫県)でむごたらしく殺された父方の祖母。それらは男たちの野望のための攻略の具とされた結果ではなかろうか。しかし、誰が好んでそのような理不尽な死を迎えたのだろう。せめて納得のゆく死を迎えたい。男たちの野望の道具となって死ぬくらいなら、天の神のもとへ行った方がましだと考えたのも当然のなりゆきだと思う。
それに玉子は、年とともに男性不信に陥っていた。夫忠興は、玉子の身が大切だからと、味土野に隠したようにみせながら、実は細川家を守るために幽閉したのであったし、その間には、当然のことのように側室(おふじ)も置いていた。また、父の光秀が謀反に成功したときには、いろいろな人が寄ってきて、天皇家からも使者がきてあいさつなどもあった。ところが、その後、死んでしまえば逆賊だという汚名を着せられる。そういう中で人間を信じようといっても無理な話である。
ハライソへの回復
本能寺の変の2年後、秀吉の仲介にしたがって、玉子は忠興と復縁するが、その後は夫への献身の念などうすれてゆくばかりだったと思われる。玉子がひそかに教会を訪問したのは、天正15年(1587)6月、キリスト教禁令配布直後のこと。洗礼を受けて霊名ガラシャ(神の恩寵の意味)を授かった。
霊魂不滅を説くキリスト教に帰依して、玉子は天国に召されることを望んでいたのではなかろうかと思える資料がある。吉田小五郎著『キリシタン大名』によれば、キリシタン弾圧が強まる中、「パレードらの身を案じ、死を覚悟して続々京都にのぼって来た信者の中には無論のこと高山右近もいたが、細川ガラシャは覚悟をきめ、処刑の折に、身をつける晴着を用意して捕縛を待っていた。いずれもあわよくば殖教の列に加わることへの期待をかけていたのであった」というものである。
秀吉が亡くなり、慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まると、忠興は家康の東軍についてしまう。石田三成は、家康方の大名の妻子を人質にとろうとし、ガラシャの屋敷にも兵を向けた。玉子は用意した晴着で、7月17日の最後の夜に臨んだのである。玉子は、家老小笠原小斎になぎなたで胸をつかせ、家に火を放たせた。享年、38才。熊本市立田山の泰勝寺に細川家第2代の妻として立派に葬られた。
のちに徳川8代将軍吉宗は「徳川家の今日あるは関ヶ原の一戦にあるが、その勝利は明智氏(玉子)の義死があずかって力があった」とたたえているが、玉子の死は徳川家繁栄のためや、細川家安泰のためだったのではない。人の世を捨ててハライソへ帰っていったのである。
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