ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.021 「 西南の役にみる西郷隆盛の逡巡 」

講師/郷土史家  徳永 紀良 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「西南の役にみる西郷隆盛の逡巡」です。


日本最後の内戦となった西南の役。熊本は西南の役の舞台になり、熊本城、田原坂など各地で激しい戦闘が繰り広げられました。西南の役を引き起こした西郷隆盛には、多くの謎があります。西郷隆盛とは、どんな人物だったのか。熊本とはどんな関わりがあったのか、西南の役は何のための戦いだったのかなどについて、郷土史家の徳永紀良先生に御講話いただきました。


西郷隆盛のルーツは菊池一族だった


西郷隆盛は、熊本にゆかりの深い人物である。その祖先は菊池一族といわれ、家紋も菊池一族と同じ「鷹の羽」であった。

菊池一族の中で最も有名なのは、後醍醐天皇の時代に活躍した一二代の武時。その父が西郷隆盛であった。あまり知られていないが、鹿児島の西郷さんと同姓同名の人物がもう一人いたわけだ。

武時は、後醍醐天皇方につき、一三三三年に九州探題の北条英時を攻めて討ち死している。死に際に息子の武重を呼び、菊池家の再興を諭して、武重を肥後へ帰した。その辞世の句が「故郷に今宵ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらむ」。有名な袖ヶ浦の別れである。

鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まると、論功行賞として、天皇から武重は従五位の位を授けられる。以後「菊池一族は、生まれたときから五位の位」と称されることになった。明治時代に教育勅語を起草した元田永孚も「菊池一族は日本一の忠臣である」と、明治天皇からお言葉をいただいている。

元禄年間、菊池一族の子孫の西郷九兵衛という人が現在の七城町に住んでいた。細川藩の圧政に耐えかねて熊本を逃げ出し、鹿児島の甲突川のほとりに住み着き、郷土として力をつけてきた。その六代目が(菊池一族では三二代目)吉之助、後の西郷隆盛である。七城町には<西郷隆盛ならびにその子孫発祥の地>という碑が建っている。祖先が菊池一族であったことを誇りにしていた彼は、自分の子供にも次郎、子の名前をつけている


明治維新のスーパーヒーロー


西郷隆盛が生まれたのは、文政一0(1827)年。亡くなったのが明治一0(1877)年だから、ちょうど五十年の生涯だった。彼は謎の多い人物で、自殺を四回も試みている。

若い頃の西郷はお庭番として主君の島津斉彬にかわいがられ、農政で鹿児島を富ませる建白書を提出するなど、その才能を認められていた。江戸幕府を倒し、明治維新の実現まで世の中を引っ張っていった。勝海舟と会談し、江戸城を無血開城したことは、あまりにも有名だ。

明治維新の功労として西郷は天皇から正三位の位を授けられた。岩倉具視も、西郷の主君の島津忠義も縦三位だったことを考えると、破格の待遇である。公務員の月給が七円の時代に西郷は四〇〇円の月給をもらっていた。大久保利通はちなみに三〇〇円。

西郷は、明治二年に職を辞し、いったん鹿児島に帰り、私学を開く。しかし、再び明治四年に政府に呼び戻され、廃藩置県を断行し、大久保や岩倉が外遊している間に政務をあずかった。学制、徴兵令を出したのも西郷の功績であるが、明治六年、政府内の征韓論に破れ、辞職して鹿児島へ帰っていった。その後、政府の実権をにぎったのが大久保利通。西郷と幼な馴染みで、肝胆相照らす仲だった大久保と敵味方に別れて戦うことになるとは、皮肉な結末であった。


西南の役に死地を求めた


西南の役が始まったのは、明治一〇年二月一五日。西郷を総指揮官にして鹿児島の不平士族・私学党派を中心に一万三千人が挙兵した。二月一七日、西郷は、鹿児島を出発。持病(象皮病)のため馬に乗れなかった彼は、駕籠に乗ったり、球磨川を船で下るなどして熊本に着く。薩軍に呼応して、熊本からは池辺吉十郎の熊本隊(学校党)、宮崎八郎の協同隊(民権党)、竜口隊、その他党薩諸隊を合計すると、七千七百人が集まった。健軍神社に集合した熊本隊はすでに戦いが始まっているのに議論百出、一日遅れの参戦、「おてもやん」の民謡もこの時生まれたものである。薩軍は、他県士族その他徴募隊の参加もあり、総勢三万五千人になった。

これに対する官軍は、総勢六万人余、戦費も国家子算の八割の四千二百万円を使い、薩軍とは圧倒的な差があった。薩軍は、軍資金(百万円)も乏しく、西郷札という紙幣を発行し、物資も現地調達というありさま。薩軍は強盗の集団だったと極論できる。兵士の数、武器、兵士の補給、前線基地の設営など、何の戦略も持たず、何のための戦争だったのかと、首をかしげたくなる。近代兵器の官軍に対して、薩軍は精神主義で、立ち向かっていった。私は、西郷は死に場所を求めて、戦争を起こしたのではないかと思っている。

西南の役ではく熊本各地が戦場になったが、なかでも有名なのが田原坂の戦いである。福岡方面から南下する政府軍を迎討つのは、この道路しかなかった。ここでは三月四日から一七日間戦闘が続き、一日四〇万発(官軍側)もの弾が飛びかったそうだ。薩軍は先込め式のエンピール銃や旧式の銃しか持たず、五連発のスナイドル銃を持つ政府軍に勝つことはできなかった。

熊本城の攻防でも、県下各地の戦いでも薩軍は敗退をくり返した。

八月一七日、西郷は党薩諸隊に解散命令を出し、九月一日に鹿児島へ帰郷。九月二四に自刃して果て、ここにわが国最大のそして最後の内乱は二百二十二日ぶりに終結したのである。