ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.020 「 熊本城はなぜ落ちなかったか 」

講師/後藤是山記念館館長  堀江 満 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「熊本城はなぜ落ちなかったか」です。


加藤清正がその築城技術の全てを投入して築きあげた熊本城。その歴史は古く中世にさかのぼります。現在は熊本のシンボルとして堂々とした風格を見せていますが、熊本城の歴史はまさに熊本の歴史でもありました。今回は熊本の古地図をもとに、熊本城築城以前の熊本と、城の特色について御講話いただきました。その要旨をご紹介します。


熊本城のルーツ


――― 千葉城と隈本城 ―――

熊本城のルーツは十五世紀応仁の乱の頃、菊池氏の一族出田秀信が茶臼山に隈本を築いたのに始まる。

当時の隈本は菊池一族の支配下にあったが、居住者や耕作地は大変少なかった。何故なら坪井川と白川の二つの川が一年中氾濫をおこしていたため、平地で人々が生活できる場所は限られていたのである。畑はわずかに丘陵地に作られるのみで、辺りは一大湿地帯を形成していた。しかし守護菊池重朝はこの小さな場所に出田秀信を代官として派遣、隈本を治めさせるべく茶臼山の東側に城を築かせている。その目的は当時唯一商工業都市として栄えていた二本木付近(国府)を確保することと、この地にすでに祀られていた八幡宮(現在の藤崎八旛宮)の祭祀の存続をはかることの2点のためであった。出田秀信は80町歩程度の領地を持つ武将であったが、いずれにせよ隈本はまだ大きな町ではなく、城も後の熊本城とは比べるべくもない小規模なものだった。ちなみに千葉城の名前の由来は山の端にあることから端(つば)城、それが次第になまってちば城になったと推定される。

それから少し時代が下ると九州では徐々に有力な豪族が台頭するようになる。南には島津氏、東には大友氏が、北には竜造寺氏が着実に力をつけ始め、地理的に九州の中心地であった隈本は次第にその勢力にさらされるようになった。そこで変わって飽田、詫麻、玉名の3郡にわたって560町歩を領していた鹿子木寂心が隈本へ代官として派遣され、昔の隈本城(千葉城)に入る。しかし出田氏の7倍の経済力と政治力と軍事力を持つ寂心にとって千葉城は狭すぎたのであろう。彼は着任するとあらたに茶臼山の西に隈本城(現在の第一高校と国立病院)を築いている。


清正の築城と町づくり


天正16年(1588)、肥後25万石の領主として加藤清正が入国する。彼が隈本に入りまず行ったのは根本的な都市改造であった。新田開発、干拓、河川改修等、清正が行った工事は千ヶ所以上にのぼると言われている。なかでも秀逸なのは熊本城築城とそれに付随する河川改修である。

清正は当時連結していた坪井川と白川を切り離して白川を城の外堀にし、また、坪井川と西の井芹川を結んで全く別の川にしこれを内濠にした。これはもちろん外敵を防ぐための目的もあったが、川の流れを変えることによって湿地帯は人々が住居できる土地、そして新田へと見事に生まれ変わったのである。清正はこのようにして熊本城を拠点に次々と都市計画を推し進めていき、土木治水の神様と言われるようになった。近代熊本の歴史の第一歩はまさにこの時代から始まったのである。


熊本城を支えていたもの


ところでその工事費用はいったいどのようにして捻出していたのであろうか。いくら清正が肥後25万石を領していたとはいえ、あれだけの大規模な工事を賄えるものではない。(しかもそのうちの約7万石は秀吉の直割領であって、しかもこの直割領の年貢分を納めないがため石田三成との金銭的な確執がはじまり、関ヶ原の戦いに連っている)

隈本へ入国する直前清正は当時世界の貿易港として知られていた境にいた。彼は小西隆佐、石田三成と共に代官として秀吉の厚い信頼を受けていた。清正はそこでの経験を生かし、学僧であった下津棒庵を外交担当の重臣にとりたて、海外貿易を行っていたのである。熊本等で採れた小麦は硝石や鉛などに変えられ、それら貿易品は更に京に売られ莫大な利益となっていった。45年続いた加藤家が改易後、細川忠利が熊本に入国前に調査したところ、実際は54万石ではなく75万石あったので狂喜したと言われている。熊本城を支え、熊本の基礎を作り上げたのは他でもない、清正の才覚に基づくこの海外貿易政策であった。



清正が茶臼山に築いた熊本城は御存じの通り周囲 5.3キロにわたる見事なものだったが、けして彼の威光をしめすばかりのものではなかった。その規模や外観はもちろん、城としての機能においても日本一の名城といってさしつかえないであろう。なぜならこの城はあくまでも150回もの実戦経験に基づいて作られた要塞だったのである。ではなぜこのような大規模な城が必要であったのだろうか。秀吉の「唐入り」を熟知していた清正は、「大唐国20ヶ国」拝領を約されていたので、日本軍の兵站基地として(拠点として)の大規模な城を築く必要があったのである。