ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.019 「 三角の歴史 」

講師/郷土史家  小崎 龍也 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「三角の歴史」です。


宇土半島の南西に位置する港町三角。三方を海に囲まれた地理的特異性から独特の文化が生まれました。その特徴は三角の古代遺跡に現れています。例えば、半島南部の打越貝塚からは薩摩隼人式、国指定の小田良古墳、平松古墳群からは甕棺式の墓がそれぞれ出土していますが、隼人式に似た墓はこれより以北、甕棺はこれより南にはまだ発見されてはいません。三角は太古の昔から海路の要所として多くの文化、物質を受け入れましたが、山手の方では奈良時代の遺構や地名が未だに残るなど、新しさと古さが混在する不思議な町です。今回はそんな三角の魅力や歴史について現存する文化遺跡を中心に、ご講話いただきました。


蒲智比咩(がまちひめ)神社と製鉄の歴史


三角の町は郡浦(こうのうら)を中心に発展してきた。明治の終わりまでは三角より、郡浦という名称が一般的だったが、その郡浦にかつて蒲智比咩神社という社があった。この蒲智比咩とは島原の普賢神社祭神の娘でイザナギ、イザナミの神の孫娘にあたる女神である。中世の三大実録中に蒲智比咩神社に関するこんな記録がある。『八七八年(元慶二年)蒲智比咩神社の前の川が真赤に染まり、周辺の草木は全て枯れてしまった。驚いた都の人々がこれは肥後国に異変がおこる前触れだと都の神祇官に申し立てをしたところ、「疾病が流行、もしくは外から敵が攻めてくる」という占いがでた。そこで十二月、神祇官が宗像神社へお祓いの使いをだした』とあるが、占いの真偽はともかくこの異変は本物だったようである。

中世、この地方では郡浦地区を中心に、製鉄で繁栄していた。現在もあちらこちらにその製鉄遺跡をみとめることができるが、蒲智比咩神社の川の上流にも官迫(かんざこ)という製鉄があった。すなわち当時、製鉄用の鉄が川に流れてそれが酸化して川を赤く染めたのであろう。その鉄錆が草木を枯死させたのだと思われる。


郡浦神社と阿蘇氏の勢力


蒲智比咩神社は後に郡浦神社に祀られるが、蒲智比咩神社の祭神、蒲智比咩は阿蘇の国造神社の速瓶玉(はやみかたま)命に嫁いでいる。これは蒲智比咩神社を祀っていたこの地の豪族が阿蘇氏に敗れ神社共々阿蘇氏の支配下に入ったことを意味する。

阿蘇氏が三角に勢力を伸ばしたのは、良港を得るためであった。中世の肥後の港―――玉名の高瀬は菊池氏、川尻は川尻氏、八代は相良氏にそれぞれ治められていたが、三角にはこれらの豪族のいずれにも属してなかったのである。以後、三角は阿蘇氏の海外貿易の拠点となり阿蘇氏の勢力下におかれる。郡浦神社が阿蘇、健軍、甲佐の三社と共に阿蘇四社に数えられるのはこの頃からで、もとの祭神、神武天皇と蒲智比咩神は阿蘇三神と併祭されるようになった。これはもちろん阿蘇氏、阿蘇大宮司家の勢力に伴うものである。

近世に入り阿蘇氏が完全に没落し、郡浦神社は阿蘇神社の支配から離れるものの、明治にはまた改めて阿蘇神社の摂社に制定された。阿蘇氏がこの地で衰微したとは言え、細川御殿の志津子姫が阿蘇大宮司に嫁いだり、郡浦手永の初穂料が必ず阿蘇へ納められるなど、三角と阿蘇のつながりは消えなかったのである。







三角のシンボルといえば西港。周りに建つヨーロッパ風の建造物とともに、明治の香りを今に伝えています。当時の様子をしのびながら西港の築港の歴史をたずねてみました。


熊本の海の玄関、三角


宇土半島は天然の良港である。海外との交易に便利な地であったため、この地をめぐってしばしば攻防がくりかえされたといわれる。

三角の港町の歴史は長いものの、国家事業の一環により港が整備され、ひとつの繁栄を築いたのは明治になってからである。

明治十七年から三年の歳月をかけて完成した三角西港は、明治三代築港のひとつとして明治政府の国内統一、殖産振興政策に基づき建設された港であった。三角が新しい築港の場に選ばれたのは、風波の少ないおだやかな天然の良港で、九州西海航路の要点にあったことなどからである。海をのぞみながらも近代的良港を持たなかった熊本県にとり、三角港にかけた県民の期待と喜びは計り知れないものがあった。明治二〇年の開港後は熊本の海の玄関、唯一の近代貿易港として町と共に大きな繁栄の時代を迎える。しかし国鉄三角線が開通すると、そのルートが東港までだったため、西港の機能は東港へ移行、次第に衰微の一途をたどるようになった。現在は西港に繁栄を極めた住持の様子を想起することはできないが、石積みの埠頭、水路、ヨーロッパ風の街並みは三角を訪れる人々に港町・三角のイメージを強烈に植えつけている。

今、西港に龍驤館という建物がある。この地は文豪小泉八雲の『夏の日の夢』の舞台となった「浦島屋」の跡地である。明治二十六年小泉八雲は、長崎から熊本市へ帰る途中に三角の西港をおとずれ、旅館「浦島屋」でしばしば休息をとった。

八雲は作品中で巧みに浦島屋の部屋から見える西港の様子を描写している。西港の景勝と浦島屋でのくつろいだひとときは、八雲の心に深く強く刻みこまれたのであろう。なぜなら短編とはいえ、ひとつの作品を書かせたこの地に八雲が滞在したのはほんの半日の間だったのである。