ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

清正公信仰

No.018 「 肥後と加藤清正 」

講師/本妙寺住職  池田 尊義 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「肥後と加藤清正」です。


「清正公さん」の愛称で親しまれる加藤清正。天正十六年(一五八八)に肥後国領主として入国以来、熊本城をはじめ、治水、土木工事、交通路の整備などに力を尽くして熊本の基礎をつくりあげました。死後四百年以上を経てなお熊本の人々に慕われ、愛されている理由について歴史的背景を追いながらご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


清正公、入国


加藤清正はもともと尾張中村の出身である。清正は早くから父を亡くしたため、母方の遠戚である豊臣秀吉に預けられた。清正は長篠の戦をはじめ各地の戦場で次々と功を挙げ、秀吉の腹心として小西行長と共に肥後国を賜わることになるのである。

清正の肥後入国は天正十六年(一五八八)、おりしも肥後国衆一揆がおこり、領主佐々成政が失脚した直後だった。各地に割拠していた五十余名の豪族も、この一揆ですべて没落した。広い視野に立った、統一的支配が清正によって始められた。その後慶長五年(一六00年)関ヶ原の戦を機に、球磨郡をのぞく肥後一国を領し、一躍五十四万石の領主になった。中世から近世へ、肥後国は時代の移り変りとともに清正によって統一されるのである。


名城、熊本城


熊本城のルーツは南北朝の時代に築かれた千葉城にある。しかし今日のような大城郭を構えたのはもちろん加藤清正である。清正は茶臼山の地形を巧みに利用し、周囲十二キロにわたる巨大な砦をつくりあげた。その勇壮かつ優美な景観もさることながら、熊本城を名城たらしめているのは数々の防御設備である。床板の下に仕掛けられた「石落とし」や天守閣の土台に鉄製の槍のようなものを一面に植えた「忍びがえし」などはほんの一例である。城内には百二十もの井戸が掘られ、また、食糧確保のため天守の畳にはかんぴょうや芋がらが使用されていたらしい。

とりわけ特長的なのは「高石垣(清正公石垣)」とよばれる石垣で、下方はゆるやかな傾斜だが、上部になるに従い頭上に覆いかぶさってくるような不思議な構造になっている。清正はこれらの築城技術を数々の戦、とくに朝鮮半島での体験で学んだと言われている。


清正公信仰


清正は土木治水の名手として知られている。彼は肥後に入国以来、領内の水利開墾に着手し、多くの業績を残した。開墾の面積は約一万五千町歩、生産米は約二十一万石にもなる。その他、白川、坪井川等の堤防や灌漑用水の開設、小田牟田新田をはじめとする干拓など領民の授った恩恵は数えあげればきりがない。

そのためか熊本には昔から清正を「神」として尊崇する「清正公信仰」が根付いている。この清正公信仰とはいつ頃始まり、また、どういった性質を持つのであろうか。

清正の死後五十年(細川綱利の治政)には既に清正をしのぶ祭礼があったと言われているし、熊本藩の史料に「清正公の百年忌には足軽十数名を派遣した」という記録が残されている。いずれにしても清正が亡くなって一世紀も経たないうちに藩をあげての祭礼が行われていたらしい。

このように生前の徳行を称えて、死後その人を神に祀る風潮は南北朝以降に始まったもので、他にも豊臣秀吉の豊国大明神、徳川家康の東照大権現の例がある。いずれも当人達をしのぶ民衆達がその心のよすがに、寺社に彼らを祀ったのであろう。そして時を経るに従い、その業績や人物が伝説となって次第に神格化されるまでになったと思われる。(実際清正公が築いたとされる数々の事業は無論清正公一代でできたものばかりではなくむしろ細川氏が受け継いで完成をみたというものが少なくないのである。)前の例と違って清正を神に祀ることに当の加藤家は全く無関係であったらしい。またその性質も個人的現世利益だけではなく、水利・土木・農業の神様として広く祀られている。このことから清正公信仰の本質は、宗派を超越した、民衆の清正公に対するただひたすらの敬愛の念であり、しかも至極自然に発生したのであろうと考えられる。


本妙寺と浄池廟


いま、熊本城の北東に加藤家の菩提寺本妙寺がある。本妙寺は日蓮宗六条門流で、清正が父清忠の菩提をとむらうために建立したと言われているが、清正自身が現世・後生を祈願する寺でもあった。

慶長十六年(一六一一)に清正が亡くなり中尾山に廟(浄池廟)が建てられると、本妙寺も茶臼山からその傍に移った。しかし明治になり神仏分離令が出されると浄池廟と本妙寺は神社、寺として激しく分けられ、本妙寺の僧すらも社殿に入れないという事態がおこる。そこで明治四年社殿だけが熊本城内に移され、廟と神社は分離した。

その後は西南の役で焼失した大本堂と同時に浄池廟の建物も造られ、本妙寺と浄池廟は現在の姿になった。七月の頓写会をピークに清正公をしのんでここを訪れる人の足は今も絶えることはない。