ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.017 「 大津町の歴史 」

講師/大津町文化財保護委員長  吉村 昌之 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「大津町の歴史」です。


熊本市の東方、白川の中流に位置する大津町。中央には白川に平行して国道57号線がはしり、阿蘇へと続いています。大津町は有名な杉並木をはじめとして、清正公や細川氏が築いた数々の事業と共に発展しました

今回は大津町の旧蹟や町の歴史について、大津町文化財保護委員長、吉村昌之氏にご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


合志一族の支配


中世、戦国時代の大津は豪族「合志氏」の支配に属していた。

合志氏は最初は佐々木と名乗る士族で、滋賀の大津から遠く年貢奉行としてこの地に下ってきたという。当時、大津の北部の大部分は比叡山の寺領だったので、年貢を取りたてる奉行が寺領地毎に配置されていたのである。寺領地を管轄していた矢護山にある無動寺の集落で佐々木氏は一族と共に次第に力をつけていった。その後佐々木氏は地名にあわせて合志と改名。最後の居城であった竹迫で島津氏に滅されるまで栄華を誇った。(大津の地名はこの合志の支族、大津十郎義廉が東獄城を築き、城下に集落をしたことにはじまると伝えられている。)

中世は戦乱が多く、無動寺をはじめとする神社仏閣は殆ど失われた。もちろん合志一族の勢いをしのぶ資料も、わずかに残る跡地にしか残されていない。


清正公の事業   ―― 原野を穀倉地に


大津町は中央に走る今の国道57号線を境に、北部の畑地帯と南部の水田地帯へと分かれる。今でこそ阿蘇の自然と豊富な水に恵まれ、一大田園地帯を形成しているが、かつては大津原野とよばれる火山灰土壌が広がっていた。

この荒地に水をひけば耕作のできる土地になると見抜いたのは加藤清正である。肥後の領主として入国する際にこの大津原野を見た清正は、ここに白川の水をひくことを計画する。清正の死後、息子の忠広が上井手の掘削に着工。そしてその後は細川氏がこの遺志を継いで、ようやく水路が完成した。大変な労力と四十年という歳月が費やされたが、この大事業によって大津原野は大津千町とよばれる穀倉地帯へと見事に生まれ変わったのである。

ところで、この穀倉地帯からとれた穀物を脱穀し、できた米の粉から作られたのが、「銅銭糖」である。水車でついたり、石臼でひいたりした、米の粉を固めたもので、かつては中にあんも何も入っていないごくシンプルなものだった。とはいえ、当時米は貴重品だったので、ある階級の人しか口にすることはできなかったらしい。銅銭糖という名前の通り、一銭銅貨を五十枚重ねたそのユニーク形も、実は庶民の憧れを投影しているのである。


大津御蔵と横綱不知火光石衛門


大津には、「大津御蔵」と呼ばれる蔵があった。これは阿蘇郡や大津手永の全域、竹迫手永の一部の年貢米が納められる倉庫で、幅十間、長さ九六間の非常に大規模なものだった。十月から十一月にかけては、農民が年貢米を納める時期で、阿蘇広域からたくさんの人馬が大津にやってきた。街々は活気にあふれ、もちろん経済効果も甚大だった。「御蔵払」とよばれるこの時期は、年に一度の大イベントだったのである。

大津は相撲の盛んな地域だが、もともとこの御蔵に俵を出し入れする人々の力自慢に始まったと言われる。横綱土俵入り不知火型で知られる「不知火」はここ大津出身の第十一代横綱で、その容貌の美しさ、技の巧みさは大きな人気を博した。

藩主細川氏に抱えられ「不知火光右衛門」を名乗るが、引退後は二代目不知火諾衛門として不知火部屋を設立している。


「大津千軒鍋釜干さず」


大津街道は加藤清正が残した大きな遺産で、その規模の大きさは全国でも類を見ない。遠く屋久島から取り寄せたと言われる杉並木が延々二十キロも続き、今も往時をしのばせる。

大津は参勤交代の最初の宿泊地として大いに栄えた。街道沿いには、一行を一人でも多く宿泊させるための家々が立ち並んでいた。「大津千軒鍋釜干さず」と言われるように、行列が来る時には鍋や釜を干す暇も無い忙しさだったらしい。しかしその日には、街の両端に竹製の簀戸口(すとぐち)と言われる門を建て、臨時の関所を構えるという大変な警戒があった。町民にとってはまさに命がけの期間でもあったのである。