ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.016 「 藤崎八旛宮の歴史 」

講師/藤崎八旛宮 宮司  岩下 忠佳 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「藤崎八旛宮の歴史」です。


熊本市の総鎮守、藤崎八旛宮。もともとは京都の石清水八幡宮の分霊として熊本に社地を構え、古くから人々に崇敬されています。伝統と歴史に支えられた藤崎宮の由緒、そして「随兵祭り」の名で親しまれている秋の大祭の魅力などを藤崎八旛宮、岩下忠佳宮司様よりご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


藤崎八旛宮の由来と名称


藤崎八旛宮は、朱雀天皇が九州鎮護の為に承平五年(九三五年)に創建した勅願社である。当時は国の内乱の激しい時代で、朝廷は武神の分霊を迎えた社を各地に祀り平定を祈願することにした。藤崎宮はその一つで、武神、石清水八幡を分霊としている。社地を定めるにあたっては、九州の真中にある肥後、肥後の中でも国府のある清らかな所を条件とした。そこで今の熊本城地の茶臼山が選ばれたのである。

創始以来、藤崎宮は朝廷から庶民にいたるまでたちまち信仰を集め、肥後一国の宗廟と称されるようになった。社殿の修造においては勅命より国司、国守が造営するならいであったらしく、その権威のほどがしのばれる。明治以後は社格制度の制定により懸社に指定され、のちには熊本市内で唯一の国弊社に昇格した。

藤崎宮の名称は、勅使が神馬の鞭に京都男山の藤でできたものを携えてきたことに始まる。勅使がその鞭を3つに折り、3ヶ所に埋めたところ一ヶ所にだけ藤が繁茂した。そこでこの地が「藤崎台」と呼ばれるようになり、社殿が築造されたと伝えられている。明治十年の西南戦争で、社殿は熊本城と一緒に焼失してしまい、藤崎宮は現在の井川渕町に移転するが、今も藤崎台球場には七本の大楠がその名残りをとどめている。

また、藤崎八旛宮は八旛宮の旛に旛の字をあてる全国唯一の社である。これは天文十一年、後奈良天皇から賜った勅額に「八旛藤崎宮」と刻まれていたことに由来している。古くは幡の字を使っていた時代もあったが、明治時代に内務省で正式に認証されてからは「藤崎八旛宮」に統一された。(幡の原義は単なるのぼり旗。旛とは「大きくて幅の広い見事な旗」を意味する。)


神仏習合 ― 宗教と民族的思考の融合


藤崎八旛宮の主な御神宝は「木造僧形八幡神坐像」、「木造女神坐像」で、どちらも国指定重要文化財となっている。男神像は僧形、女神像は前髪の宝冠に阿弥如来像が描かれているもので、神社の御神宝が僧形であるのは大変珍しい。これは藤崎宮の特色といえるが、ひとつの日本的宗教のかたちを象徴している。

もともと神道には他の宗教のように教義も教典もないため、神道とは何かという説明をするのは困難を極める。強いて言うなら、古事記、日本書紀に神話として登場することで、私達はその輪郭を垣間見るにすぎないのである。にもかかわらず、七五三や厄払いといった人生儀礼を習慣とするのは何故だろうか。

子供は親の手振りを真似しながら生活習慣を身につけていく。それと同様に私達は生活の中で先祖の祈りの形を自然に受け継いでいる。それが我々が呼ぶところの神道で、教典や教義が無くても日本人同士なら何となく理解できるのはこのためで、宗教と言うよりは、日本的(民族的)思考と言った方が良いかもしれない。

実際に、仏教が日本に流入しても他国の例の様に大規模な宗教戦争はおこらなかった。排仏派もいるにはいたが、そのうち自然と仏教をとり入れてしまう。そこで神仏習合という一見奇妙な現象がおきるのである。藤崎宮にはたまたまその傾向が顕著で、明治に神仏分離令が出されるまでは強い仏教色を放っていた。江戸時代には天台系のお寺が周囲にあり、社僧と呼ばれる人がたくさんいたのである。


秋の風物詩、藤崎八旛宮の例祭


「随兵寒谷(ガンヤ)」と呼ばれるように、熊本の秋は藤崎宮の祭りで始まる。九月十一日~十五日に行われるこの祭りは、熊本市の年中行事中最大のもので、秋の風物詩として伝統を誇っている。五日間の間には、宮遷式、相撲大会、献幣祭など多彩な行事がくり広げられ、奉納される。中でも圧巻なのは十五日の神幸祭で、藤崎台の御旅所まで神幸行列が続く。藤崎宮の祭りが別名「随兵祭り」と言われるのは、この神幸行列の「随兵」の壮観による。随兵とは百騎の甲胄武者とこれを指揮する随兵頭、五十本の長柄槍に続く長柄頭、御幸奉行で、粛々とした武者行列である。

ところで、この祭りのすばらしさは静と動のコントラストにあると言って良いだろう。例えば神幸式の行列は、阿須波能神を先頭に、随兵の巌かな歩みに始まる。そして赤、黄の獅子が道筋を賑わした後、勇壮馬追いが登場し、祭りは一気に盛り上がりをみせる。そして御旅所では、金春、喜多流の能が舞われ、再び静かな幽幻の世界が展開される。このように時間、そして場所(空間)によってもはっきりと静と動とが分けられているのである。一つの祭りの中で演出されるこのコントラストの妙は、先祖の偉大な智恵によるものであろう。その魅力は時代を超えて、これからも連綿と受け継がれていくのである。