県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。
今月のテーマは、「山頭火と熊本」です。
定住を拒否し、行乞をしながら俳句を作り続けた放浪の詩人、種田山頭火。その生活スタイルと定型を無視した作風は、現在ますます人々を魅了し続けています。
山頭火は大正から昭和にかけて熊本に滞在し、多くの句を残しました。熊本に残る彼の足跡、また彼がたくさんの人に読まれている理由について、その人物と作品を読み解いていただきました。その要旨をご紹介します。
自由な生活・自由な俳句
私が彼の句に出会ったのは二十数年前、新聞記者になってからだ。戦前から一部には根強いファンもいたようだが、いまみたいに有名になり、だれもがその名を知るようになったのは、日本の高度成長、大阪万博からではなかったか。
なぜ、こんなに人々の心をとらえるようになったのか。世の中、管理社会になり、山頭火の何ものにもとらわれない自由な生き方(本人にすれば苦しかっただろう)にあこがれを抱くようになった、とよく説明されている。それも当たっているだろうが、むしろあのころから高度成長によってふるさとの懐かしい風景が急速に失われていったことと関係があるように思われる。
山頭火の俳句は自由律で、いわゆる五・七・五からなる定型ではないが、リズム感がないかといえばそうでもない。今日の広告コピーのハシリのようなリズムがあり、戦前のジャズに通じる即興的な心地よさがある。
山頭火が人吉の宿に泊まったら、宿の向こうからラジオがにぎやかで、「ヂャズ~ダンス
~田舎の人でさへ、もう神経衰弱になってゐる」と日記に書いているが、山頭火の生きた時代とは、ジャズとラジオとシネマの時代でもあった。
そして、彼の俳句には季語もないものが多いが、季節感がないかというと、そうではなく、そこには四季豊かな日本の山河の風景がある。
熊本での山頭火
山頭火は大正五年に妻子を連れて来熊する。もともとは彼は山口の名士の息子だったが、実家の造り酒屋が破産したため、夜逃げ同然にして熊本に落ちのびてきた。
熊本には夏目漱石以来の俳句の伝統があって、五高生や一般の人々が集まって俳句のグループを作っていた。その中に、『白川及新市街』という新傾向の俳句雑誌を出す人々がいて、山頭火は彼らを頼って来たのである。当時の熊本は都市としても、また、文芸の上でも大変モダンな街であった。
兼崎(かねざき)地橙孫(ぢとうそん)をはじめとする俳友達は、山頭火に「雅楽多」という古書店を開かせる。当時この店を訪れた人は多く、下通りに面したその店は書店というよりも、額縁や絵葉書、プロマイドなどを売る趣味的なものだったらしい。
しかしその店も、妻サキノに任せるのみで自分は専ら酒ばかりを飲む生活をおくっている。ある時など城見町にある料理店で無銭飲食をして、九州日々新聞(後の熊本日日新聞)に報じられたりした。周囲の人や俳友達に迷惑をかける乱行ぶりだったが、『白川及新市街』の同人の一人、友枝寥平だけは山頭火にお金を貸したりして、愛想をつかすことは無かった。(先頃、友枝と山頭火が一緒に写っている写真が発見され、近代文学館で初公開された)
大正八年、山頭火は五高の関係で知り合った茂森唯士を頼り上京。熊本を去る。家を捨て、妻子を捨てた上での上京であった。そこでしばし自活をするが、神経衰弱になるなどして、五年後再び熊本に戻ってくる。全く心身共に疲幣しきっていた。何か自由なものを求めていたに違いないが、彼自身それが何であるのかわからなかったのだろう。熊本に戻った後も相変らずで、無軌道、乱行の果てについに泥酔して市電に立ちはだかるという事件をおこすのである。友人らは酒に酔った彼を住職の望日義庵に引き合わせた。そのままそこに住みついた彼は翌年に得度。一月に、植木にある味取観音の堂守となっている。
松はみな枝垂れ何無観世音
松に覆われた山寺の静かな生活はほんの一年余りしか続かなかった。彼はまたも寺を飛び出すのだが、今迄のように自分をもてあましてのことではなかった。「探し求める旅」が自分の生きる道であることを感得したからである。こうして、味取観音堂を振り出しに、彼は行乞流転の旅に出る。
山頭火の人物と文学
昭和五年九月九日以後、山頭火は自分の足取りをつぶさに日記に記す。(それ以前の日記は全て焼いてしまっている)旅先からは必ず友人に葉書を宛てているし、写真も多く残している。山頭火が現在愛されている理由のひとつは、自分達のまちを訪れているという嬉しさがあると思われるが、それも彼が、自分の足取りを綿密に日記に残しているからである。
うしろ姿のしぐれてゆくか
この句に象徴されるように、山頭火は常に自分を客観視する。まるで山頭火を自分で演じているかのようである。実はこれは彼の生き方と句作の姿勢に大きな関わりをもっていた。「出発-漂白-庵居-孤高自から持して、寂然として独死する―これも東洋的、そしてそれは日本人の落ちつく型(生活様式)の一つだ」
昭和七年九月の記述にこうあるように、山頭火はその生き方を日本人的だと言う。日常から脱却し、放浪に身を置く生活は、彼自身が日本人としてある程度意識していたことだったらしい。
同様に、彼の句作りもある目的を伴っていた。晩年の日記に、映画『宮本武蔵』を観た感動を記し、武蔵が剣の道を求めるように、句作こそが自らに課せられた生業だと考える。そして、句を作ることで、自国、日本に奉じようと思うのである。この報国の精神は結果として彼に日本的風物に目を向かわせることになった。
すすきのひかりさえぎるものなし(阿蘇)
安か安か寒か寒か雪雪(熊本)
山頭火の詠う世界は、このような日本的風景である。彼は俳句の制約や規則にとらわれない本当の自分の句を目指した。それは俳句の型からは逸脱するものの、結果的には俳句の精神により近付くことになったのである。
山頭火作品の特殊性は無論、「定形を外れた」所にあり、それが魅力にもつながっている。しかし彼の句が愛唱されているのはそればかりではない。私達が彼の句にある種の懐しさを覚えるのは、的確に日本人的心情や風景美がそこに詠みこまれているからなのである。そしてこれこそが時代を超え、私達の心をうち続けている大きな理由であろう。
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