ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.014 「 夏目漱石とくまもと 」

講師/熊本大学教育学部 教授  中村 青史 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「夏目漱石とくまもと」です。


明治二十九年に五高の教授として熊本に招かれた夏目漱石。小泉八雲と共に熊本にゆかり深い作家として知られています。しかし滞在中の漱石の文芸活動は専ら俳句で、多くの作品に明治時代の熊本が詠み込まれています。後には、『草枕』『二百十日』など、熊本に題材をとった小説を発表しました。

今回は漱石の残した俳句から、熊本時代の漱石と、小説との関わりについてご講話いただきました。その要旨をご紹介します。


俳人としての漱石


「どっしりと尻を据えたる南瓜かな」

これは漱石が熊本時代に残した叙景句である。当時の熊本駅周辺は「おてもやん」で 知られているように「春日ぼうぶら」畑の中にあった。

漱石は明治二十九年から三十三年までを熊本で過ごしている。彼の身分は第五高等学校(現・熊本大学)の英文学の教授だったが、その四年余りの間に彼は多くの俳句を残した。『草枕』『二百十日』の小説はもちろんだが、俳人としての漱石をみる時にはそれ以上に熊本との縁の深さを感じずにはおれない。

実際、彼の文学者としてのスタートは小説ではなく俳句であった。これは東京の友人、正岡子規の影響が大きい。子規は、四国松山の人で、ご存じの通り俳句の革新運動をなした新俳句の祖である。その子規の直弟子には高浜虚子がいた。彼がこの新俳句運動の渦中にいたというよりも漱石自身がそのメンバーだったと言えるだろう。漱石といえば熊本とゆかり深い小説家といったとらえ方をされがちだが、俳人としての位置付けを無視できない。何故なら彼ののこした全俳句の40%が、熊本時代に作られているからである。


漱石とくまもと


漱石が熊本にいたのは、彼が三○歳~三十四歳までの間である。年齢的にも社会的にも大変重要な時期であり、漱石自身の思想形成にも大いに寄与するところがあったと思われる。熊本は単に舞台としての機能を持つだけにとどまっていない。

明治二十九年から三十三年にかけ、漱石は自らの生活をリアルタイムで俳句にしている。多くが叙景句なので、最熊中の彼の足取りを追うことができる。たとえば明治二十九年の句、「衣更へて京より嫁を貰ひけり」

漱石はこの年に結婚し、東京から鏡子夫人を迎えている。最初の住まいは光琳寺にあったが九月には合羽町(現在の坪井町)に引っ越した。この第二の家について漱石は「熊本の借家の払底なるは意外なり、かかる処へ来て十三円の家賃をとられんとは夢にも思はざりし」と子規にあてている。同時代の国木田独歩の『酒中日記』中に、小学校校長の給料が十五圓という記術があるので、当時としてはかなり高額な借家だった。この家で漱石夫妻は初めての正月を迎えるが、五高の同僚や学生が大挙してきて散々な目にあう。これにこりて翌年の正月は同僚の山川信二郎をさそって小天温泉に遊んだ。明治三十一年のこの旅行がもちろんあの『草枕』の舞台である。この小天行きは漱石の心身にくつろぎを与え、創作意欲を大いに喚起する旅であった。

「旅にして申譯なく暮る。ゝ年」

「元日の山を後ろに清き温泉」

「温泉や水滑らかに昨年の垢」

小天によせてのこされた多くの句には、草枕の原型がある。(『二百十日』の舞台となった阿蘇の句にも同じことが言える。)

明治三十二年の五月には、長女筆子が誕生する。

「安々と満鼠の如き子を生めり」

これは叙景句ではない。鏡子夫人はつわりがひどく、ヒステリーが高じ、白川に身投げをしたりしている。この一句には夫人を心配し続けていた漱石の心情が投影されているのである。

筆子が生まれた内坪井の家も越して、更に北千反畑の家に移り住む。

「菜の花の隣もありて竹の垣」

「春の雨鍋と釜とを運びけり」

この家に三ヶ月住んで、明治三十三年七月漱石は熊本を後にした。


漱石文学の源流


東京に戻った後、明治三十九年に『草枕』『二百十日』を発表している。この二作品には俳句の影響は少なくない。

もともと俳句の祖は俳諧連歌であり連句であった。連句とは前の句と関わりを持たせながら句をつなげていくのだが、単に前句を受け続けていくのではなく、二、三の山場を必要とする。一般的には恋、笑い、危機的要素の三つだが、これが漱石の作品中にも存在するのである。また章と章との移り変りが、連句の展開の仕方に近似しているのも指摘できる。

友人正岡子規の推進する写生文(事実をありのまま、絵画のように描くことを目的とした文章)を実現したのが漱石だが、写生文の精神はもちろん俳句に起因している。漱石文学の源流はやはり俳句にあり、それを貫く原動力に五高時代の熊本は大きく関与しているのである。