ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.013 「 宇土の歴史 」

講師/宇土市教育委員会 文化振興課長  一(はじめ) 宗雄 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」。熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「宇土の歴史」です。


海に向かって大きく突き出した宇土半島。ほぼ県の中央部に位置しており、早くから交通の拠点として重要な役割を果たしてきました。

宇土はかつて島であったため、人々は長く飲料水に悩まされていましたが、宇土細川藩の名君のもとに大きな財産を作りあげます。これが日本最古の上水道、轟水道で、名水轟水源と共に宇土の最大の自慢となっています。

今回は宇土の歴史について、新しい事実をまじえながらご講話いただきました。その要旨を紹介します。


海に支えられていた古代の人々の生活


宇土は温暖な気候に加えて豊かな自然に恵まれているため、早くから居住者がいた。これまでこの地域に人が住み始めたのは五~六千年前の縄文時代とされてきたが、近年の網田地区の調査で旧石器時代の遣物が発見され、一気に一万五千年前まで時代を逆上った。

人々と海の結びつきは深く、遣跡からその生活ぶりが伺える。曽畑、轟の二つの貝塚からは大量の貝殻が出土しており、当時既に貝の加工場のようなものがあったのではと推測される。また、貝に混じって鯨の骨やひれの模様の入った土器がみつかり、かつて有明海、不知火海に鯨がいた事を証明した。

盛んな海上活動の足跡は古墳にも残されている。この地域の装飾古墳は殆どが線刻文様で、宇土市北端の梅崎山古墳や仮又古墳にみられるように、船が描かれているものが多い。この船線刻は宇土以北にはあまり例がない。その他、興味深いものに宇土市最大級の古墳、向野田古墳の副葬品がある。この古墳は被葬者が30~40代の女性であったので注目を浴びたが、鏡や鉄製品と共に棺に入れられていた勾玉はこのほどチベット産のひすいだったのがわかった。

かつての宇土は半島ではなく、島であったため、今以上に海は古代の人々の暮らしと大きく関わっていたに違いない。また、海を渡っての交易も想像以上に広範だったようである。


宇土のまち作りの祖、小西行長


中世になると、まず菊地氏の勢力が入り、その後現在の地名になった宇土氏、名和氏がこの地を治めた。特に名和顕孝を始めとする名和一族の治政は百年に及び、現在宇土南西部の西岡台には名和の城の柱跡が残っている。

やがて豊臣秀吉の九州征伐に伴い、肥後は豊臣の勢力下におかれた。肥後国衆一揆により、佐々成政は失脚し、名和氏に代わって宇土の領主となったのは小西行長であった。小西行長は肥後の南半分、14万石を秀吉から与えられ、その居城を宇土に構える。

別名小西城、鶴の城と呼ばれた宇土城は石垣をもつ近代城郭で、熊本城より12年早い築城だった。規模はそれほど大きいものではなかったが、三層の天守閣は数里離れた所からその姿を望めたという。

築城と並行して、行長は宇土のまち作りを行った。城下には武家屋敷、町屋敷などの住居を整備、また、南北に4つの幹線、東西に横丁を配し、碁盤の目のような町並みを作った。当時外に向かって流れていた船場川を城のまわりにとり込み、外堀と運河の役目を担わせたのも彼の事業である。

かつて行長は4人の大名と共に博多のまち作りを行っており、そこでの知識と経験を宇土の地に活かしたのだった。


日本最古の水道、轟泉水道


海抜0mのこの地域は、いくらボーリングをしても地下水に塩分が混じる。そのために人々は生活水に長く悩まされていた。宇土の二代藩主細川行孝公は、なんとかして良質の水を得ようと、轟山麓の水をひく計画をする。

轟水源は肥後の三轟水と呼ばれ、湧水量、水質共に申し分なかったが、ここから市街地までは約3km。それ以上の長さの送水管を地中に埋め込むのは当時としては大変な事業だった。

送水管には当初、松橋村の窯元に作らせた土管を使用していたが、老朽化のため明和六年(一七六九年)六代興文公の時代に石官に変わった。この石官は加工が容易であり、水圧に耐えられるという理由で、網津村産の馬門石が使われた。

水道の完成により、人々は真水が口にできるようになったが、階層によってその使用に差がつけられていたという。もちろん井戸があるのは士族の家だけで、町民は町内に1つの共同井戸を使っていた。

ところでこの轟水道は、水道史では十五~六番目の古さである。しかし三百年を経てなお当時のままに使用されているのは全国でもここだけで、最古の上水道と言われる所以である。

轟水源は現在も毎時三千トンの湧水量を誇り、県内外の多くの人々に愛されている。


宇土細川藩と網田焼


加藤家改易の後、肥後には細川家が入る。細川忠興の三男、忠利は幕府の命で肥後を領することになり、肥後初代藩主となった。八代には忠利公の弟立孝公が入るが、34才という若さで死亡。八代にいた忠興は、立孝の子、行孝を八代と熊本の間の宇土へ入れた。こうして宇土細川藩が成立する。

この宇土細川藩の御用窯をつとめたものに”幻の網田焼”とよばれる名器がある。良質の白陶土を使った白磁で品格があり、将軍家への貢献の品として作られていた。幻とよばれる理由は、文政5年の献上中止から窯元が次第に衰微し、その生成方法を知る者がいなくなったためである。しかし近年、宇土市網田町・中園家から実物と古文書がみつかり、百年以上を経て幻の網田焼は日の目をみることになった。