ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.012 「 玉名の歴史 」

講師/玉名市立歴史博物館 館長  田邉 哲夫 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」。熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「玉名の歴史」です。


県北部の政治、経済、文化の中心都市・玉名市は菊池川の下流域に広がります。菊池川と玉名との結びつきは古く、港町として発達した玉名は菊池川とともに歩んできました。点在する装飾古墳群や玉名温泉にも古い歴史があり、まちの随所に先人たちの暮らしの足跡が残っています。

今回は玉名の歴史について、古代から中世、近代に至るまで順を追ってご講話頂きました。その主旨をご紹介します。


江田船山古墳は、玉名郡司・日置(へき)氏の墓か?


玉名の歴史は古い。縄文時代から恵みの地として知られ、弥生時代には早くも大陸との交流が始まっている。古墳時代(5~6世紀頃)には、赤や青の幾何学文様の装飾古墳があり、一帯の豊かな暮らしの跡が伝わってくる。なかでも江田船山古墳(現菊水町)からは、日本最古と言われてきた漢字が刻まれた銀象眼の太刀が出土した。

この江田船山古墳は誰の墓なのか…?当時、大和朝廷から派遣された玉名郡司の日置氏の墓ではないだろうか。日置氏は熊襲征伐の最高司令官で、菊池川流域に大きな勢力を張った豪族である。日置氏が力をつけていった背景には、近くの小岱山に製鉄や須恵器の生産という経済的基礎があったからとみられる。現在、小岱山麓にある製鉄遺跡(約50ヶ処)須恵窯遺跡(約30ヶ処)が、その証である。また、日置氏の貿易港は、大湊(JR玉名駅一帯)にあった。古代、菊池川流域を押えた日置氏の名残りが、玉名のあちこちに見受けられる。

日置氏の氏神として祀られていたのが、疋野神社。きの神社がきの神社となったものだろう。平安時代の延喜4式によると、疋野神社は阿蘇三社とともに官弊社に列せられた。後年、日置氏の没落により荒廃し、社地の跡さえ分からなくなった。これを憂えた肥後藩主・細川綱利は、元禄4年(1491)に今日見られる壮大な社殿を造営した。


港町・高瀬のあゆみ


古墳時代の前期に、阿蘇の凝灰岩を舟形にくりぬいた舟形石棺が全国一多いように、玉名(高瀬)は菊池川の水運との関係が深い。

旧高瀬津は菊池川河口に臨み、有明海唯一の良港として古くから唐船が出入りし、留学、修行僧や日明貿易、軍船の出帆などに利用された。また日置氏のあとこの地を支配し、一時は九州一円を支配した菊池一族も、ここを拠点にして、朝鮮や中国との貿易で懐を潤したといわれる。

加藤清正は肥後入国後、伊倉に唐人町を作って朱印貿易を行った。鎖国後は高瀬を城北経済の中心地として米倉を設置。菊池川流域の肥後米を積んだ舟が、続々集まってきた。江戸時代、全国から450万俵の米が大阪堂島の米市場に運び込まれた。そのうち日本一旨いと評され全国の米相場の基準だった肥後米は40万俵で、その半分の20万俵が、高瀬の港を出て行ったのである。港町・高瀬は大いに賑わい、活気に満ちていた。米の積み出し場の跡は、今でも”俵ころがし”と呼ばれる石畳が残っている。また商家や回船問屋だった土蔵造りの建物がところどころ残っている。裏川沿いには石垣が並び、なかでも多くの人たちが行き交った高瀬目鏡橋(1848年築造)には、高瀬商人の魂が宿っている。

西南の役(明治10年)での戦火、近年の陸上交通の発達で、高瀬は徐々に影が薄くなった。しかし玉名(高瀬)の人は、先祖たちの力強いエネルギーを今も受け継いでいる。


川と港をテーマにした博物館がオープン


5月22日、「玉名市立歴史博物館・こころピア」がオープンした。玉名温泉街から東南へ約300M、菊池川と繁根木川に挟まれた、市民会館の隣である。

鉄筋コンクリート平屋造り、約2,000㎡の館内は、川と港をテーマに展示してある。船のオブジェ「幻の船」を展示したシンボル展示室。船形石棺が多く作られた古代、菊池氏の軍港として栄えた中世、大阪への米市場だった近世の3つの時代を中心に歴史展示した常設展示室。ほかにも企画展示室、情報検索室、そして16本の展示塔を設け、玉名を象徴する写真や模型を飾った屋上展示があって夜間も無料開放している。

「こころピア」には、川とともに歩み、川を暦に暮らしてきた、玉名の人たちの歴史が刻まれている。ぜひ一度訪ねてみて下さい。

電話番号 : 0968-74-3989


疋野長者伝説


千年も昔、都のある貴い姫が、観音さまから「肥後の国玉杵名の疋野の里の炭焼き小五郎を夫にするように」とお告げを受けた。そこで姫は幾山河を越えて、小五郎の家を訪ね一夜の宿を求める。しかし小五郎は「米の貯えすらない」と断ると、姫はお金を渡して米を買いに行くように言う。小五郎がしぶしぶ出掛けると、小さな沼に白鷺が戯れているのを見て、そのお金を投げつけた。足に傷を受けた白鷺は、湯煙がのぼる田んぼに降り、やがて元気に飛び去った。不審に思った小五郎が田んぼを探ると、地の底から熱い湯が湧きでていた。これが玉名温泉(別府・白鷺温泉)の由来である。

一方小五郎は米も買わず姫のもとに帰り、「あれに似たものならこの山にいくらでもある」と言う。姫は、「これは大切なお金というものだ」と教え、観音さまのお告げを語り、二人は夫婦になった。やがて二人は、疋野の里で製鉄の業を興し富み栄えて、疋野長者になったと伝えられている。長者が金を造った跡は小岱山麓の上代製鉄跡、長者伝説の地は現在の疋野神社の北側とされている。