県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」。熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。
今月のテーマは、「肥後の能楽」です。
肥後・くまもとは日本を代表する神事能のふるさとで、藤崎宮例大祭での演能や出水神社夏期例大祭の薪能は、肥後能楽の最たるものです。しかし能は独特な日本文化であるがゆえに、その歴史、流派、主題などについて、広く一般には知られていません。
今回は、能のあゆみ、肥後と能との係わりなどについて、歴史を追ってわかり易くご講話頂きました。その要旨をご紹介します。
能の恩人は ――――― 、足利義満と豊臣秀吉
能は南北朝時代末期から室町時代初期にかけて、いわゆる観阿弥、世阿弥の頃に、日本の伝統演劇としての基礎が確立した。それ以前は、田楽、猿楽の諸座が芸を競っていたが、14世紀後半に大和猿楽四座(のちの観世(かんぜ)、金春(こんばる)、金剛(こんごう)、宝生(ほうしょう)座)の一つ結崎座から観阿弥が出現。彼は、大和猿楽の伝統である物真似の芸に当時流行していた曲舞を取り入れて成功した。その子世阿弥と共に演じた能を将軍・足利義満が見物し、以後義満は絶大な後援を与えるようになった。世阿弥は父の偉業を受け継ぎ、物真似主体の芸から幽玄を理想とする歌舞主体の芸に磨き上げ、芸の芸術性を確立した。
その後戦国の世を経て、織田信長、豊臣秀吉の時を迎える。秀吉は熱狂的な能の愛好者で、金春流の能を習って天皇の前で演じた。また薪猿楽を復興させたり、数多くあった猿楽座を大和猿楽四座に統合し、各座に夫々千石前後の配当米を与えるなどした。
このように北山文化を築いた足利義満、そして桃山文化を興隆させた豊臣秀吉という、時の権力者の手厚い保護によって能は基礎を固め大成していったのである。
清正から細川へ ――――― 肥後能楽の花が咲く
稀代の能狂い・秀吉の忠臣、加藤清正は豊臣家から譲り受けた金春流の武家役者・中村政長を召し連れ、肥後に入る。そして新座を能座として再興し、藤崎宮放生会と北岡宮祇園会を再興させた。県下最大規模の祭り藤崎宮例大祭の神幸行列は、随兵、飾り馬追いに多くの人気を集めているが、御旅所で演じられる能こそメインイベントなのである。昨年で385回を数え、400年近く続く演能は日本でもここだけである。
寛永9年(1632)加藤家が改易され細川家が肥後に入国する。細川家は学問、文化を尊ぶ家柄で、能を愛好していたのは言うまでもない。藩祖幽斎は太鼓の名人で、三斎は秀吉の天覧能の際、シテ方の一人として特に選ばれ出演した。同家は史上最も能を愛好した大名として知られており、後年の肥後の能楽愛好の下地を作っている。能楽の出典には源氏物語、平家物語、伊勢物語など文学性の高い古典が取り上げられることもあり、細川家の嗜好に適していたといえるだろう。
肥後藩主・忠利・光尚は金春流(中村伊織・同庄兵衛)、喜多流(志水一学)を同家の御流儀として抱え、これら武家役者から町衆(新座=金春流・本座=喜多流)まで広く能を浸透させた。両流それぞれワキ方、囃子方、狂言方を抱えて、技を競い合った。
新座は北岡宮と藤崎宮に奉仕し、太夫は喜多流友技家だった。江戸期に能が盛んだったのは、徳川御三家の紀伊藩、尾張藩と、前田藩、伊達藩それに細川藩ぐらいで、肥後の文化水準の高さが窺える。
金春流(新座)、喜多流(本座)に加えて、寛文年間(細川綱利の頃)には、南北朝の古風が残る菊池の松囃子能も復興され、以後肥後では長きにわたり能が隆盛を極めた。しかし明治に入ると藩からの扶持がなくなり役者が減少し、本新両座協力して草創された加藤社・出水社を加えた四社御祭礼神事能をつとめることになった。時の流れに逆らえず熊本から数多くの能役者が東京へ出たが、日本の能楽の主流を占め、多くの名人を輩出し、現在に至るまで日本の能文化を支えているのは、疑いのないところである。
幽玄の世界を知り、ふるさとを学ぶ
熊本県には五つの能舞台が現存し(出水神社能楽殿、段山能舞台、藤崎宮能舞台・菊池神社松囃子能舞台、河尻神宮能舞台)、幽玄の世界が繰り広げられる。また世阿弥は、肥後を題材にした名曲「高砂」や「檜垣」を残し、白川や黒髪という地名も、この檜垣からとられている。
世界が国際化すればするほど、我が国や我がふるさとの独自の文化が問われる時代である。遥か500年も昔から伝わる肥後能楽に残る肥後の浪漫をもっとたくさんの人が認知し、大切に守り育ててもらいたいと思う。
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