ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.009 「 西南戦争と田原坂 」

講師/郷土史家  勇 知之 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」。熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「西南戦争と田原坂」です。


西南戦争は明治10年(1877)、西郷隆盛率いる鹿児島士族が起こしたわが国最大の内乱で、明治維新の総仕上げともいうべき役割を果たした戦争です。熊本はほぼ全域が戦場となり、熊本城の炎上、田原坂の激闘がよく知られています。

今回は西南戦争の背景と田原坂の戦いを中心にご講話頂きました。その要旨をご紹介します。

熊本城も田原坂も、たくさんの観光客が訪れる名所となり、市民が憩う広場となっている。あとひと月もすると、春の風に乗って桜のたよりも聞こえてくるだろう。

今は何もなかったかのように、ただ共同墓地や慰霊碑に戦いの名残りが偲ばれるが、わずか117年前、ここは間違いなく修羅場と化した。無数の砲弾が飛び交い、多くの血が流れた。それはまさしく死闘であった。時代の犠牲となった最後の武士の魂が、ここに静かに眠り続けている。


西郷隆盛、鹿児島を起つ!!


西南戦争の直接の誘因は、明治6年西郷をはじめ一部の明治政府要員が辞職した事件に遡る。当時の政府は、薩摩・長洲・土佐を中心とした幕末から維新にかけて活躍した志士たちが名を連ねていた。唯一の陸軍大将だった西郷は、旧士族の救済方法として朝鮮国に対して通商交渉を行うなど、外圧を主張(いわゆる征韓論)するが受け入れられず、鹿児島へ下る。同じ薩摩藩出身の桐野利秋、篠原国幹、村田新八らも行動を共にした。そして鹿児島は、政府から独立したような存在となり、西郷ら反政府の官員、軍人は、私学校を創設した。

不穏な状況を察した政府は、私学校を内偵するが、刺激された私学校の徒は〝西郷暗殺の計画あり〝として西郷をかつぎ上げる。そして1万3千の藩軍は上京訪問の名目で鹿児島を起ち、熊本鎮台のある熊本城へ向かった。明治10年2月15日のことであった。


「清正公と戦(いくさ)しよるごたる」


加藤清正が7年の歳月をかけ、心血を注いで築きあげた名城・熊本城は築城当時から島津(薩摩藩)・・・押さえの城であった。清正公は城内に銀杏の樹を植えるとき、 「この樹が大きく伸び、天守閣と肩を並べる頃に、大乱が起きるだろう」 と云ったという。そして270年後それは現実となった。しかし清正公が技術の枠を凝らした要塞は、薩軍進攻の前に頑として立ちはだかったのである。

2月19日、原因不明の失火(?)により、熊本城本丸の中心部、さらに城下町のほとんどを焼き尽くした。22日、薩軍は総攻撃をかける。一方、谷千城司令長官以下官軍三千五百人は焼け残った宇土櫓に籠城を決意する。周辺は見通しが効き、官軍に有利であった。さらに城は清正公が井戸を120も掘って水を備え、畳はかんぴょうや芋がらで作るなど、籠城対策にも充分であった。城の西部・段山、花岡山からの怒濤のような攻撃に耐えて、実戦の城として築いた清正公の力が証明されたのである。「熊本城など青竹棒でひとかき」と気勢を上げた薩軍だったが、西郷は「清正公と戦しよるごたる」と一言つぶやき、南下する政府軍を迎え討つため、包囲の一部を田原坂の方へ北上させたのである。


越すに越されぬ田原坂


田原坂は、長さ1.5km、標高差60Mのゆるやかな坂。熊本城を目指す官軍小倉連隊と薩軍が、三月四日から十七昼夜も一進一退を繰り返した、西南戦争最大の激戦地である。

ここは高瀬(玉名)から熊本へ大砲を運ぶ唯一のルート。薩軍は多数の塁を築き濠を巡らして、官軍を待った。しかも街道は丘陵の腹をえぐるように蛇行曲線を描いた凹道で、下から攻め登ろうとする官軍は前方の見通しが効かず、容易に進むことができなかった。実はここも清正公が、北の備えとして築いた拠点だったのである。

薩軍は薩摩示現流の猛烈な必殺剣で斬り込んだ。官軍は狙撃兵を配して、これを撃ったが、官軍は、一の坂・二の坂・三の坂と三つに分かれる田原坂の最後の300Mを越えられなかった。雨も降り続いた。文字通り泥沼の戦場となった。一日32万発もの弾雨が降り注ぎ、弾丸が空中で激突したほどである。(田原坂資料館に保管されている)。

雨は降る降る、人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂……。

しかし雨は官軍に味方した。薩軍の銃は雨に濡れると不発になる。また、軍服、靴を備えた官軍に、木綿のかすりと・・・わらじ姿の薩軍である。次第に体力を消耗した。

官軍の総攻撃の前に三月二十日、田原坂は終に陥ちた。その後薩軍の敗走はさらに続く。

西郷以下薩軍幹部が、鹿児島・城山で自決したのは半年後の九月二十四日のことだった。


西郷どんのふるさと、菊池にあり


西郷隆盛のルーツを辿ると、先祖は熊本・菊池にある。作家の津本陽氏もその著作で、「西郷の家系は後醍醐天皇の忠臣・菊池武時の流れを汲んでいる。元禄年間に肥後から島津家の臣となった」と述べている。また西郷自身奄美大島に流された時〝菊池源吾〝と名乗った。現在、菊池郡七城町に「西郷」という集落がある。一帯は菊池十八外城の一つ増永城跡で、城主は、西郷氏。初代・西郷太郎政隆から32代目が隆盛である。

西郷どんに、くまもとの血が流れているかと思うと、とても身近に感じるものである。