ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.008 「 熊本の石橋文化 」

講師/日本の石橋を守る会会長 矢部町文化財保護委員長  井上 清一 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「熊本の石橋文化」です。


空を横切る半円のアーチ、積み重なった石が織りなす絶妙のリズム、青い水面に映る影。くまもとは日本一の石橋王国。全国の石橋の約半分が集中しています。

今回は、その殆どを築きあげた「種山石工」の軌跡と、主に熊本における業績についてご講話頂きました。その中から2,3ご紹介します。


種山に渡った石工の祖


"肥後の石工"として全国に名を馳せた特殊技術集団「種山石工」。その業績の数々は、熊本はもちろん、鹿児島、遠くは東京にまで及ぶ。

しかし、その始まりは決して容易なものではなかった。

種山石工の祖、林七。彼の前身は長崎奉公所に勤める役人であった。

日本に初めて眼鏡橋が造られたのは、1634年長崎。熊本に石橋が造られるのは、それより約150年後になる。当時の技術は中国伝来のものであり、日本人には皆目見当もつかなかった。

眼鏡橋の落ちそうで落ちないバランスの不思議に取り付かれた林七は、オランダ人の通訳を通して、その原理が円周率にあることを学びとっていた。その職務を越えたつき合いぶりが幕府の目にとまり、身の危険を感じた林七は逃亡を企てる。各藩の往来が自由に出来ない当時である。彼は長崎~肥後往復の船にひそみ、肥後に渡る。大きな採石場があった種山村で石工の技術を学んでいく。


一本の曲尺(かねじゃく)がアーチの謎を解いた。


アーチ橋の原理は分かったものの、それをどう応用すればよいか。林七にその答えを与えるきっかけとなったのは、日本の大工道具、一本曲尺であった。「規矩術」とよばれる技法で尺の表で計って裏を読むと、ピタリ円周率と一致する。これを用いて屋根を葺くと、下に向かってなめらかな曲線を描く。これを逆にすると、眼鏡橋のアーチになる。

林七はさっそく息子たちと橋の試作を始めた。壊しては架け、苦労の末に小さなアーチが3つできた。これらは鍛冶屋上橋、中橋、下橋とよばれ、今も種山の鍛冶屋川に現存し、谷底の小川やあぜ道の要路として生き続けている。

この時1804年(文化元年)が、日本に絢爛と花開いた、石橋文化の始まりであった。眠ったような肥後の片田舎で、種山石工の巨大なエネルギーが、頭をもたげようとしていたのである。


積み重なって花ひらく「種山石工」の石の文化


林七は息子たちにもてる知識と技術の全てを教えこんだ。父から子へ、子から孫へと伝えられた秘伝の技術は、各地に見事な花を結び、一族の地位を不動のものにしていった。

林七の次男三五郎は、甲突五橋を始め、鹿児島で約30もの石橋を築き、その功績を認められて「岩永」の姓を賜わった。大変な人格者でもあり、彼を慕う島津藩の役人たちが、秘密を守るために藩が仕向けた刺客から、三五郎を守ったという逸話も残っている。三男三平は藩の刺客に襲われ、津奈木の村人に助けられた。そのお礼に架けたのが太鼓橋の傑作「重磐岩眼鏡橋」だという。また、喜八の息子卯助ら五兄弟は、授かった秘伝を、東京の眼鏡橋、熊本の霊台橋、通潤橋、で見事に開化させた。三男丈八は、「橋本」の姓を受け、名を勘五郎と改めている。彼は東京でいくつもの橋を架けたが、当時(明治初期)の彼の給料は「二十円」であったという。彼の偉大さを示す、貴重な一例である。


熊本の眼鏡橋、その美と技術の粋



①雄亀滝(おけだき)橋――くまもと初の水道橋

「当惑谷」と呼ばれる深い深い山あいの谷。何度橋を架けても流され、村人が困り果てたことが名前の由来という渓谷に架けられた水道橋。通潤橋の原型といわれる。1817年頃、三五郎によって完成された。

田畑を潤し、村人の生活を潤したこの橋は今も現役で活躍。取水口からは水が音をたてて落ち、用水路へと流れていく。


②霊台橋――日本一の単一アーチ橋

130年もの歴史を秘めた日本最大の眼鏡橋。その巨大は緑川の清流をがっしりとまたぎ、空に秀麗なアーチを描く。

延べ4万4千人の人夫を使った大工事。枠組に使用した材木は杉240本、松120本であったという。卯助、宇市、丈八の3兄弟はこの巨大な橋を1846年4月に着工し、その7ヵ月後の11月に完成させた。その業績は橋のたもとの石碑となって今に伝えられている。


③通潤橋――空を渡る巨大な水路

「雄亀滝橋」で証明された水道橋の原理は、ここで見事に開化する。橋の中に溝をつくり水を引く、同時に人馬も通れる――この画期的アイディアを実現したのは、霊台橋の完成で一躍名を馳せた卯助兄弟である。1854年に竣功した。

熊本城の石垣の石組みを取り入れるなど、石橋の構造には特に念を入れた。また、土砂による水路の目づまりを防ぐため、左右に2ヵ所穴を開けた。普段はそこに楔を打ちこんだ木栓をはめておく。田に水がいらなくなった秋に栓を抜き管路の水を落とすと、水の水圧で中の土砂も一緒に流れだす。これが矢部の観光名物「放水」である。

白い筒のような巨大な滝が、美しい放物線を描いて落ちていく。溝掃除の苦肉の作が、橋から滝が吹きだすという、世にもフシギな光景を生みだした。



その他にも彼らが残した業績は数えきれない。物いわぬこれらの石橋をながめていると、先人の血と汗、そしてそれらをはるかに越えて輝く種山石工の明るい理知の力が見えてくるようだ。