ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.007 「 菊池一族の興亡 」

講師/郷土史家  荒木 栄司 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「菊池一族の興亡」です。


九州一の渓谷美で人気を集める菊池渓谷と、なめらかな泉質を誇る温泉のまち菊池市。母なる大河・菊池川の上流にあるここ菊池市には、もう一つの顔があります。中世の肥後最大の豪族・「菊池一族」の本拠地だった歴史のまちです。市内各地には本丸跡の菊池神社をはじめ、一族の墓、菩提寺が点在し、中世一途に殉じた武士の魂が今も伝わってきます。今回は菊池一族の約500年にも及ぶ"大歴史絵巻"をご講話頂きました。その要旨をご紹介します。



平安期に栄華をほしいままにした藤原氏の血をひく菊池一族が、中央での政争の巻き添えで大宰府の役職を離れ、肥後入国したのが延久2年(1069)。初代・菊池則隆公のときで、ここから一族興亡のドラマが始まる。

菊池一族の歴史を語るときは、決して肥後一国には留まらない。平安期から鎌倉、南北朝、室町へと移り変わる日本史の変革期には必ず名を連ね、その命運を握ったといっても過言ではない。日本全土を舞台にし、公家と武家が権力を争った時代、菊池の名は日本中に鳴り響いたのである。


源平合戦・蒙古襲来時に早くも登場


平家、源氏の武士が台頭。その後平清盛を筆頭とする平家が治め、やがて源頼朝が挙兵する源平合戦へ、と流れる歴史は皆さんよく御存知。この頃菊池氏 6代・隆直公も、いち早く平家打倒を旗印に大宰府を攻めるが、結局平家の軍門に降ることになる。

その後特筆すべきは、鎌倉時代の中期蒙古襲来時における、10代・武房公の活躍である。2度にわたって蒙古軍は北九州に襲来した。(1274年・文永の役、1281年・弘安の役)時の幕府は西国の武士に出動を命じた。このとき肥後から出陣したビッグ3が武房公、竹崎季長(下益城郡小川町)、大矢野三兄弟(天草郡大矢野町)である。彼らの奮戦で蒙古軍は退散。この戦いの模様は「蒙古襲来絵詞」という絵巻物に描かれており、原本は皇室にあるが、菊池神社歴史館に複製が展示してある。


後醍醐天皇に呼応して、12代武時公起つ!!


元弘元年(1331)後醍醐天皇は、時の北条政権の討滅を謀ったが、北条方に察知され隠岐へ島流しとなる。そして京都では別系の天皇が即位。しかし後醍醐天皇は島から各地の武士へ決起をうながし、京畿では楠木正成が挙兵するなど、世は騒然としていた。

12代・武時公は、後醍醐天皇の勅詔と錦旗を奉じて、少弐、大友といった九州の有力武士と九州探題(福岡市姪浜)の北条英時を攻略しようとするが、両氏は離脱。単独で一族郎党と探題に突入し、勇戦するが…。敗戦必至と覚悟した武時公は、長男武重を呼びよせ、「故郷へ帰り一族を立て直して、北条を討つように」と遺訓を残して自害した。「抽が浦の別れ」として語り伝えられ、後の楠木正成の「桜井の駅の別れ」のモデルになったという。


菊池千本槍で、13代武重公、尊氏軍を阻止


京都をめざす足利尊氏と新田義貞を大将とする朝廷方が箱根でぶつかったのが建武2年(1335)。このとき尊氏討伐軍の先鋒をつとめた13代・武重公は、千の兵を率いて箱根山に進撃。三千余騎の足利直義(尊氏の弟)と戦った。武重公は手頃の竹を切らせ、その先に短刀をつけた武器を作って待機。直義軍めがけていっせいに槍を突きまくり、大きな成果をあげた。この合戦の菊池軍によって初めて採用された戦法で、「菊池千本槍」として今日まで伝承されている。

また武重公は、菊池家憲と呼ばれる一族の結束を祈願した「寄合衆内談の事」を作成した。一族の惣領の独裁ではなく、各有力氏族による合議で物事を決定しようというもの。武重公の血判が押されてあり(血判文書としては最古のもの)、現在も菊池神社に保存されている。


征西将軍懐良親王、菊池に入る


後醍醐天皇は吉野(奈良県)へ移られ、尊子は京都で別の天皇をたて、いわゆる南北朝時代を迎える。その直前に天皇は皇子懐良親王を征西将軍に任命し、九州に派遣。親王は九州の南朝方の主力・菊池氏を頼り、苦節13年の後に菊池に入る。

懐良親王を迎えたのが15代・武光公。親王の指揮下、武光公が大将となって、北朝方の拠点大宰府へたびたび迫り、正平14年(1359)筑後川の戦いで勝利した。

親王は征西府を大宰府に移されるまでの約11年間、菊池で暮らされた。親王の居城だった「雲上宮」、観月を楽しんだ「月見殿跡」は、菊池神社のすぐ近くで、今も往時の名残をとどめている。また親王のお手植えのムクノキ「将軍木」の前の能舞台で、松囃子能をご覧になった。菊池神社例祭のときには、現在もここで上演される。

菊池一族は始終南朝方だったが、肥後の守護大名的存在として幕府から遇された。19代・持朝公のときには、筑後守護も与えられる繁栄振りが続く。しかし22代・能運公には子がなく菊池嫡流が途絶え、天文12年(1542)、大友義鑑が菊池義武を追って、中世500年の歴史を刻んだ菊池一族の幕は下りたのである。