ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.004 「 南蛮文化と天草 」

講師/天草文化協会会長  堀田 善久 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「南蛮文化と天草」です。


ともすれば、キリシタン殉教の島として、心重いイメージでとらえられがちな天草。今回は、天草のもうひとつの顔 ――――――― 日本列島に隆盛を誇った"南蛮文化の発信地" としての一面をご講話頂きました。天草コレジョ、少年使節団など、当時の文化の先端が、鮮やかによみがえりました。その要旨をご紹介します。


キリスト教の天草伝来


当時天草を支配した天草5人衆(志岐、天草、大矢野、上津浦、栖本氏)。その中の1人志岐氏が1566年、ポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダを招いたのがキリスト教・天草伝来のはじまりである。(ザビエルが鹿児島に初来日してから17年後)

当時、一部の特権階級であった仏教にかわり、人々は神の前で平等を説くキリスト教に心のよりどころを求めた。宣教師たちの熱心な布教にもより、20数年後には島民の殆どがキリシタンになったと言われる。中でも志岐(現在の苓北町)は「宗教会議」の開催地としてキリシタン文化の中心で、南蛮美術学校「画学舎」も開かれた。

しかし、貿易目的だった志岐氏は、貿易の利益が望めないと知ると突然棄教し、キリシタン迫害を始める。それとともにキリスト教の中心は、熱心な信者であった天草氏の領内(現在の河浦町~本渡市)へと移っていった。後にここはコレジョが置かれ、南蛮文化の中枢として栄えることになる。


バリニアーノと少年使節団


天草の巡察使、バリニアーノは日本を高く評価し、東洋最大のカトリック王国にと期待した。彼は当時の日本人についてこう書き残している。「従順で平和を好む民族。文化の高さは驚くほどで、識字率が非常に高く、器用かつ清潔である…。」

バリニアーノは、てはじめに1582年(天正15年)、天正遣欧少年使節団をローマに派遣することにした。日本人の中から宣教師を育てよう、東洋における自分たちの功績を見せようという、二つの目的があったと思われる。

この時のメンバーは各地のセミナリオ(キリスト教の小学校)から選ばれた優秀な4人の少年、伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノである。4人はキリシタン大名大友氏の手紙を携えてローマ教皇に面会し、大きな歓迎をうけた。その後ヨーロッパ各地の教会を視察してまわり、またリスボンでは西欧の高度な印刷技術を学んだ。のちに4人の持ち返った南蛮文化が天草学林で実を結ぶことになる。


生きつづける南蛮文化の心


天草の地で栄華を極めた南蛮文化だが、現存するものは無きに等しい。

次第に激しくなるキリシタン迫害の中、家康の禁教令(1612年)と天草の乱(1637年)により、キリシタンに関するものは殆ど破壊された。

残ったのは料理や言葉などの文化遺産である。例えばイカスミ・タコめしなどは天草の郷土料理として今に残り、イチジクはこの地方では南蛮柿と呼ばれている。

しかし、それ以上に南蛮文化の影響が色濃いのは、民衆の心ではないか。庶民の生活レベルで西洋の文化が浸透したことは、後の明治開花に大きな影響を及ぼしたと思われる。

また、殉教の島と言うイメージをくつがえすように、天草の人々は闊達で明るい。南蛮文化がもたらした自由な精神と世界的視野は、進取にとんだ天草の気性に脈々と流れている。