ふるさと寺子屋講師をお招きしてテーマに沿って語っていただく昔語り

No.002 「 肥後藩参勤交代の路 」

講師/郷土史家  大平 五雄 氏

県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。


今月のテーマは、「肥後藩参勤交代の路」です。


参勤交代の功罪


参勤交代は徳川幕府への反逆の力を失わせるために強制された、いわば各藩の"莫大な無駄使い"である。しかし、これによって宿場町の経済は潤い、発達がうながされたことも事実である。また、自国の文化を運び、他国の文化を吸収するという功もあった。細川氏による"てなが制度"(その土地のてなが(庄屋)が人夫の世話をする)が、それを更に深めたものと思われる。

熊本からの主要街道「豊後街道」「薩摩街道」「豊前街道」「日向街道」は全て「札の辻」(熊本城内の一角)が起点。


街道を見守る武蔵像


熊本大学近く、街道前の「武蔵塚公園」には細川忠利・光尚の二代に仕えた武蔵が眠っている。武蔵は、死後も殿様の参勤の姿を見守りたいと遺言した。細川氏に対する武蔵の忠誠心がひしひしと伝わってくるようだ。

二の宮神社の旧道付近から三の宮神社に抜けるルートに一本の川がある。当時の休憩所で、人や馬はここで乾いた喉を潤した。"水呑"と言う地名はここからついたと言われている。


超ビッグスケール!大津の杉並木


三里木の駅を過ぎると、本格的な杉並木が始まる。日光街道と並び評される大津街道の杉並木。約20km続くこの杉の木は、 (1)熊本城改築の資材 (2)敵が来たときにとおせんぼをする、 という二つの目的で植えられた。道幅は凹道の部分が30~40M、杉並木をあわせると60~80Mにもなる。日光とは比べものにならないスケール。ここは昔、馬の訓練所として使われていたそうだ。現在は杉並木を両側に凹道を国道57号線とJR豊肥線が通っている。


殿様専用の休憩所「的石の茶屋」


二重の峠をすぎ、八里木に入るとかの有名な「的石の茶屋」が見えてくる。当時のままの姿を残すこの茶屋は参勤専用のもので殿様の大のお気に入りだったとか。清冽な湧き水をたたえた優雅な庭園は、「水前寺」とよく似ている。殿様はここでゆっくり中食を取り、二時間程休憩して内牧へ向かわれたそうだ。


大分に残る"肥後の文化財"


最大の難所「滝室坂」を越え、街道を行くと、大分に入る。ここで豊後街道は肥後街道と名前を変える。野津原町今市には石畳が当時のままの姿で残っている。手入れの行き届いた実に見事なものだ。

野津原をすぎると、ついに九州の終着駅"鶴崎"。一行は船に乗って瀬戸内海へとむかった。ここには、細川氏築建の剣神社があり、"細川船団"の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられている。"波奈之丸"とはいかなる大波もどうすることもできない、という意味で、航海の無事を祈願してつけられた。また、行列を描いた絵巻物は非常に貴重な逸品。神社に現存する唯一のものである。

一説によると、清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたそうである。"参勤交代の時、便利なように"という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れた。

そのため大分では今なお加藤清正の人気が高く、様々な"肥後の文化財"も大切に保存されている。熊本ではまず見られない逸品も数多く現存している。感謝の気持ちをもつとともに、私達熊本の人間もその姿勢を大いに見習いたいものである。